任意ラジオという過去の思い出をねつ造する

うさださくら
デスクトップアクセサリー「伺か」をDLできます。
導入:「伺か」の基本
辞典:Encyclopedia of 伺か(と、互換アプリ)
◆「任意ラジオ
伺か」のキャラがしゃべったりしてた同人ネトラジ。さいきん聴き返したところ、以前よりもおもしろく感じました。これが成長ですよね、お兄ちゃん……。
ゲリラライブで警察沙汰になったこともあるらしいです。
関連:「任意ラジオ」ゲリラライブに万世橋警察激怒(Internet Archive)、任意ラヂヲライブ結果リンクライヴレポート集(BRAINSTORM)
苺衣ラジ
もう終わってるけど、「任意ラジオ」の後続っぽいネトラジだったとかどうとか。少し聴いていた覚えがあります。

任意ラジオ」のライブのことを調べていると不思議な感じがした。三年前ごろの僕は「任意ラジオ」やそういう文化に関心をもつはずがない。いわば、僕の世界にそんなものはなかった。それにもかかわらず、「任意ラジオ」という文化を楽しむ大きいお兄ちゃんたちはたしかに存在したのだ。いまになって認識した。

任意ラジオを聴き返すのは楽しい。不可思議にも、そこに懐かしさを感じた。以前に聴いたのは二年前ごろだろうか。だから懐かしく感じるのも不思議ではない。しかし僕は、「任意ラジオ」を聴くことに対してでなく、「任意ラジオ」を取り巻いていたオタク文化に懐かしさを感じたのだ。僕の過去には、そのような文化は存在していなかったのに。

懐かしさという感情の機微を伝えるのは難しい。「ないはずの文化への不可思議な懐かしさ」という言い回しで、僕のいまの感情がどれだけ伝わるだろうか。検索をしてリンクを巡り、多くのデッドリンクに突き当たった。そのなかで残っているわずかな情報を寄り合わせていくうちに、ないはずの過去が芽生えてくるようだった。

「過去をやり直したい」とたまに目にする。「いまの認識のままで」という前提が暗に含まれているだろう。「いまの認識のままで」過去をやり直せるなら、僕は絶対、「任意ラジオ」を聴く。それを取り巻く文化に触れ、感得する。その「いま」のなかでしか認識できないこともあるだろう。そうするのが不可能である以上、ひとは情報をもとに想像するしかない。それでも「懐かしい」と感じたのだ。「何に?」と問うと答えに詰まる。不確かなところだらけだが、もう「思い出」といってしまおうか。