議論を殺すのはひとの感じたことへの反論である

  • 感じることは自由に決まっているじゃないか。
  • ひとの感じたことに反論するばかやろうども、
  • それが「反論」を殺すのだ。
  • 「反論」が怖い僕たちよ、ひとの感じたことを肯定しよう。
  • そして、ひとの考えたことへ「反論」する。
  • けれど僕が好きなのは……。

感じることは自由に決まっているじゃないか。

なかなか満足できる文章を書けない。なぜかと考えると、考えるからだろうと考える。書きたい内容の組み立てを工夫して、論理的におかしいなという点を埋めて、何度も推敲する。改善を試みるから、悪いところにも気づくのだ。一方、ほわほわと感じていることを、ほわほわと書きつづった文章にはあまり不満がない。だれも僕の感じたことにケチをつける道理はない! そう感じているからだ。
「それおかしいよ」といわれると、顔が赤くなるときもあれば、納得し感心することもある。どういうときに赤くなるかというと、僕の感じたことに「おかしいよ」といわれたときなのだなあ。それを「反論」だなんて、絶対によびたくない。感じることは自由だ。作為的なおこなえない以上、責任の生じる余地がない、などと理屈をこねる以前にこういいたい。感じることは自由に決まっているじゃないか。当たり前だろう。

ひとの感じたことに反論するばかやろうども、

サイト運営において書かれる文章には感じていることを語ったものも多い。僕は「サイト論」とよばれる文章に関心をもっているが、「サイト観」とよぶほうがふわしいな、と常々思っている。だからこそ「出尽くした議論だ」「ひとりよがりだ」という批判もある。しかし筋違いだ。その素朴な文章に「サイト論」というレッテルを貼るのは、批判している当人ではないか。感じたままを語った「サイト観」に反論する道理はない。(もちろん例外もある。とぼしい知識で「──すべし」「──あるべし」と主張しているひともいれば、ウェブやサイトについて緻密な考えを述べるひともいる。彼らの「サイト論」に対して反論するのはまっとうである)
サイト論にかぎった話ではない。むしろほかの事柄についてのほうが感じたことは多く語られている。つまり「日記」である(叙述や叙事で済ませないでほしいという願いも込めて、やや強引に、こう言い換えた)。「日記」も「サイト観」も好きだ。なぜ素朴な文章はおもしろいのか。体験から感じたことしか書かないからだと思う。論じる訓練を受けたひとは一部だが、感じる訓練を受けてたひとは、いないともいえるし、全員だともいえる。どちらにしろ平等だとは思う。だからそれぞれのおもしろさがあるし、「おかしい」ところなど断定できない。

それが「反論」を殺すのだ。

なぜ僕はいま、ひとの感じたことに反論するな、と主張するのか。なぜなら、僕の顔を赤くするようなことはいわないでください、お願いします。
そしてもうひとつ。「反論」を交わすことでみんなが納得し感心し合えたらええんちゃう、と思うからだ。意見を否定されることは人格を否定されることではない。だからどんどん意見をぶつけあって議論しよう。もっともだが、割り切れない。怖いもの。やはり一旦は、顔を赤らめてしまう。ばからしいようだが、「意見を否定しているようで、じつはあいつは僕のことを否定しているのでは……」と勘ぐってしまう。原因は、「反論」への疑いである。
思うに、というか思いたいに、「反論」というのは、ひとの感じたことへの肯定からはじまるのではないか。ひとは感じたことから考えることができる。「反論」の交わし合い、つまり議論によって洗練されるべきなのは、考えたことである。すべてのみなもとである感じたことを大切にしなければ、そもそも議論は成り立たない。感じたことに反論をすると、考えるみなもとがつぶされ、もはや何に対しても「反論」できなくなるのだ。むやみな反論が議論を殺す。

「反論」が怖い僕たちよ、ひとの感じたことを肯定しよう。

僕のように、「反論」は怖い、と感じるひとは多くいるだろう。僕と彼らにいいたい。まずはひとの感じたことを肯定しよう。おもしろい体験をしたね、すてきなことを感じたんだね。まずはこころのなかでつぶやけばいい。ひとに与えたという事実が、ひとから与えられる確信をもたらすのだ。ひとの感じたこと、自分の感じること、しだいに、そんな違いはどうでもよくなる。感じるということそのものが、好きになる。

そして、ひとの考えたことへ「反論」する。

感じたことを踏まえて考えたことが書かれていれば、自分もそれを考えてみると良い。もちろん感じたことと考えたことの判別をするのは難しい。しかし「おもしろいね」といえそうなところを求める姿勢があれば、ひとの感じたことを傷つけるおそれは減ると思う。もしひとの考えたことに対して、それが間違いであるという考えをもっているなら、そのときこそ、はじめて「反論」をおこないうるときである。
(補足。ただし「反論」は、「感じたことと考えたことのあいだ」に対しておこなうものではない。「きみの感じたことはおもしろいね。しかし、そのことからこう考えるのは間違いだよ」という「反論」は成り立たない。「正しく考えることへの筋道が感じることから延びている」とすると、感じることの自由さが失われてしまうからだ。考えたことへの「反論」は、「ある洗練された考えによると、こう考えるのは間違いだよ」というかたちでしかおこなえない)

けれど僕が好きなのは……。

(正直、あまり議論したくない。ひとの感じたことを、まだ完全に大切にできていないからそう思うのだろう。すなわち、僕の感じたことはあまり大切にされていないのだろうなあ、という自信のなさでもある。とかいいつつ、ひとの考えたことがすきだ。とくに「感じたことと考えたことのあいだ」が好きだ。そこに「反論」することはできないが、「おもしろいね」ということはできる。それだけできればいいなあ。)