「私の読書論」というタイトルで1200字の文章を書きなさい。

「私の読書論」というタイトルで1200字の文章を書きなさい。

自分探しの時代らしいから、こう仮定しよう。読書の目的とは、書を読みわたる探検によって「わたし」を探し出すこと、つまり「座右の書」の探索である、と。
僕には「座右の書」がない。ひとが自信をもって「ぼろぼろになるまで読み込みました」「暗唱できます」などといって本を薦めるのを聞くと、うらやましいし、けれど少し不愉快に思う。そうのたびに志す。「座右の書」と巡り会おう。そして胸を張ってこう言うのだ。「これがわたしです」と。しかし、いったんすばらしいと感じた書でも、読んでいる途中で、または読み終えてまもなくすれば、自然と気持ちが冷めてしまう。
もちろん、「わたし」とよべるものを発見できないだけで、書物から多くのことを学んでいるのは確かだ。たとえば、山田ズーニーウィトゲンシュタインから問うことの重要性を学んだ。すべての考えの根本には問いがあり、良い問いはおのずと答えにみちびかれるのだ。答えから遠ざかる問いなど、問いとして崩壊している。書籍を通して偉人の思想をなぞることで、「悩む」ことと「考える」ことの違いを悟った。
読書とはひとの思想をなぞる行為だ。そこから「考える」手引きを受けるだけでなく、あいまいな言い方だが、力を受けることもある。僕はニーチェを読んで力を受けた。力とはなにか。思うに、「悩む」ことから「考える」ことを決断する意志である。なんだかんだで「悩む」のは哲学チックで格好良い。しかし、ニーチェはそれを痛烈に批判した。それを受けて「悩む」ことにうぬぼれるのをやめ、問いを絞り出して考えることを志した。
上の人物のなかにも、共感できない考え方は多くある。そのような部分を切り落としながら、何人かの人物のある思想のひとつかみを寄り合わせることで、僕の思想は成り立っている。そうやって考え学んでいくにつれて、このままでは余計に「座右の書」から遠ざかるのではないかと思う。何人もの「他者」から何度にも寄り合わせてつくりあげた「わたし」と、まさに合致するような「他者」はありえないのではないか。
このままでは「座右の書」など僕にはみつからない。だが、それで何の問題があるというのか。僕が一番好きなのは、自分で書いた文章だ。「わたし」というフィルタを通して得られた「他者」の折衷なのだから、すばらしいに決まっている。最高の書は「座右」に置くものではない。書を読み、みずから考えることで編まれる「わたし」という思想そのものなのだ。
なぜ読書をするのか。求めるものは最高の書だ。しかし、それは発見できものではない。発見を通してつくりあげるものだ。名著とよばれるものも、そうやってつくられたのだろう。僕はそれを踏み越え、新たな名著を記す。そう志すきっかけを与えてくれた書を讃えたい。そしていつか、僕の最高の書を讃えよう。
(1153字、60行)

小論文にしては自分語りしすぎ。僕と「わたし」の遣い分けが微妙すぎ。物語をつくろうとしてのがダメだった。この場合、「座右の書の探索」→「いや、最高の書はみずから書くのだ」という過程を描くこと。小論文に物語性を込めようとするには力不足だと実感した。ここでは「座右の書などない」あるいは「読書の目的は、最高の書をみずからつくりあげるためである」と書き出して、その説明をしていく、という型がのほうがよかった。あと、これはエディタだからいいものの、手書きじゃとてもまとまらない。書く前に考えることを、もっとていねいにしたほうがいいなあ。「僕はこう思う」でむりやり押し進めた感じ。なにか窮屈だ。やはり小論文は型をもとに考えて文章を当てはめていくのがよい。物語を考えるのはそれができてからだ。