みずから始めおのずと成るもの、たとえば日本庭園

芸術に終わりはありませんというのも変わりつづけることに価値が見出されているからでありまして、普遍を目指すのかは知りませんが歴史において普遍というものが疑わしい以上、だからこそ変わりつづけるのが定めでありましょうと思いまして、人間のいわゆる成長というのも変わりつづけることへの価値に支えられているのではというのは、つまり改善の積み重ねであるとかそういったより洗練された変化というよりは、ただ変わることに価値があるようにも考えられるのは、たとえば昔と同じことを感じたときにいつまでも変わらないものだなあという感想をもつのは、もちろん紆余曲折を経てふたたび辿りついたという点で変わることの産物でありつつ、けれど結局同じものなのだから改善であるとは断言できないながらも、あのころに感じたこととは別のものであるという確信がありまして、僕などはネガティブなことをよく考えていましたが、明るい方へ歩むにはいまの暗さを認めることが不可欠であると考えるようになってからは、同じネガティブな考え事でも質的な違いがあるというか、それはもちろん自覚云々の話でありまして本当に改善しているかと問うに、ただ変わっているだけでありましょうから、前へ進んでいるという自覚が客観的には単なる変化や回帰でしかないという、目指すべき基準のない変化への価値というのは、やはり芸術におけるそれと同じではないかと思いますから、個性を評するような基準は定められず、ただ変わる必要性を感じて変わることに価値が見出されるのではと考えますが、逆に変わらない部分が個性であるという意見もまたもっともでして、なんの過程すら経ずに頑固に留まるものもあれば、変化を経てもとのままに回帰するものもございますのが変わらないことへの価値である個性という側面でしょうかと思います一方で、それらのうちどれが個性であるかを定めるのも暴力であるし、過程すら経ずに留まるものは広く通じてしまってむしろ薄れた個性であるとも考えれますというところで、日本の芸術観なんてものを考えてみますのもおもしろくございまして、はじめは手を加えてあとは自然の成り行きにまかせるという庭園をつくるときの発想などはとても興味深いなと思いますのは、はじめはことさらな意志で始めつつもあとは流れに任せたほうがうまくいくという経験はよくありますもので、これを個性に当てはめて考えますに、はじめは自分というものを考え込んでしまうわけですが、なにかつかめてきた時点で個性を企てるという試み自体が個性を抑え込むものであると自覚したときからことさらなまねをせずにありのままの流れにのることに目覚めまして完成するという、みずからからおのずからへのいこうといいますか、みずから、おのずと、の対比は僕の好きな枠組みでありまして、みずから始めておのずと至るという筋道は晴れときどき真理であると予報しまして、なにかが成るというのはみずから変えおのずから変わることによるものであると考える次第です。