良い文章は、良く書かれたのでなく、良く読まれるから

僕というひとに興味をもっているひとはいましょう。ありがたいのですけれど不思議である。いつ、なにから、どのようにか。ところで、読み手の気持ちを「役立つ」から「あれ、大好き!」へといざなうことは(おとなの小論文教室、2000-11-15)、ウェブにおいて「良い文章の書き方」と同じである。これは強引な感想であると思われましょう。ですけれど、いいんだもん。
「役立つ」から「あれ、大好き!」へ転換する、手法や、過程は、ズーニーさんも「謎」であると述べています。したがって「良い文章の書き方」もまた「謎」であります。けれどウェブです。「小論文雑誌」とは違います違います。ですから、いいんだもん。そこで仮定させていただきますに、いただきます、「良い文章の書き方」とはひとを好きになることです。
(以下は、本文とは一切関係ないフィクションです。)
さまざまな雰囲気には「第一人目」がいると考えていました。たとえば、受験に向き合う雰囲気は「最初に受験勉強を始めた彼」によって醸成されるということです。しかし現実には、さまざまな要因が作用するもとで雰囲気がにじみうかんできます。「第一人目」は存在しません。それを志すひとは、ところで賞賛に値すると思います。
たとえば「どうして彼女は僕に優しくしてくれるのだろう」たとえば「どうして彼は『箱』から抜け出せたのだろう」ここで「第一人目」の発想に則れば、「はじめに彼女に優しくした彼がいた」(妬きますね!)「はじめに『箱』から抜け出した彼がいた」ということですけれど、では、その彼は……では、そのその彼は……と問うと延々に深まります。「与えることで授かる」というのは、さまざまな言説、また僕の体験から、ひとの素朴な気持ちにおいてはおおよそ真理であると思うに至りました。けれど、はじめに与える「第一人目」がいるわけではなく、全体的な何か、すなわちさまざまな要因によって、授かりうる雰囲気が醸成されましょう。
(以上、フィクションでありました。)
ひとを好きにならなくても、良い文章を書けます。ひとを好きにならなくても、あなたはひとに好かれるかもしれないからです。しかし、好きうる、という雰囲気は、やはりひとを好くことで広がりましょう。好きうる雰囲気というマクロな見方もありますが、ミクロに捉えることもできます。あなたというひとに興味をもっています、と告げれば、ひとりの読み手を獲得できます。「良い文章の書き方」がひとつだけ増えるということです。でたらめを言って申し訳ないです。
蛇足にすぎませんが、釘を刺しておきます。「恋愛して心を磨けば良い文章が書けるよ」という主張とはまったく違います。もっと、でたらめです。ばかにしてください。