文章に感化されるのと、思考に感化されるのは別事であるけれど、ときに絡み合っているのは事実だ。

二連休なのできょうはお風呂に入りません。贅沢であるな、と思いましたなぜか。
しかしこの季節、お風呂に入ることで数十分は持続するぽかぽかには驚きを隠しえない。どんな暖房器具にもまさる素晴らしき日本文化に感心するばかりである。
真剣であらねば見えぬことがある。出発点でさえある。さもなくば、話にならない、と一蹴することもできる。
一生懸命であるのは格好が悪い、という反論に対しては、なんの説得する術をも持たない。説得にこだればこだわるほど、相手にとって、それは醜いおこないであるからだ。
しかし彼にも、知らずのうちに一生懸命になってしまった瞬間があるはずだ。おおなんと格好の悪いことか。
ひとを一生懸命にさせる何かというのは凄い。
ある少女殺害事件の報道を聞いて、「関心を引く」という表現は、このような文脈でも用いうるのか! と驚愕した。

まほらば』というマンガが好きである。『まほらば』に用いられる「四コママンガを織り交ぜる」手法をひとたびみたとき、滅茶苦茶におもしれえ、と感じた。絵本が掲載されたりもする。小説において書簡文が掲載されるというのもおもしろい。物語のなかに物語がある、という物語に感じるおもしれえである、と言えそうだ。だが言わない。

もっとも活き活きしているときを考えてみるに、マンガを読んでいるときである。しかし、なりわいや生きがい足りえない、と自覚している。というより、与え手にまわる才能を明らかに欠いているから、そう自覚せざるをえない。(黒板ぽ(2005-05-01)
過去に書いた文章を繰り返すのは気が引ける。上の100字ほどのパラグラフは、2005-05-01の縮小劣化コピーにすぎぬのではないか。けれど文脈が違っている。すなわち、別のいまである。いま書いた文章が最高だと常に思っている。
書けばよいわけでない。文章を書いて文脈を組んでいくと、ふいに書きたいことが顔を覗かせる。要点ではないが、とてもお手軽な小話であるようにみえ、ついつい誘い込んでしまう。
書きたいことのもつ価値と、書いたことのもつ価値は、区別したい。
書きたいことをひとしきり述べる方法もある。はじめから文脈を崩すことだ。
全体を通して、文脈という言葉の用法がとても不安定である。
朝、通学のため電車に揺られるとき。あるいは、すべき課題を残したまま湯船につかるとき。これが、もっとも思索に耽りやすい状況である。と同時に、もっともそれをカタチに残しにくい状況でもある。無意識がカタチにすべき思索を拒んでいるのだ、という類の説明には、ひどく違和感を感じる。けれど都合がよいのはたしかである。
書いている。