悩みがちである原因を精神からそらすのは逃避であろうか

かなり悩むほうだと自覚している。一般に、悩むことは良いこととされる。教師は生徒に「悩め」という。ただし、ここで意味しているのは「熟考せよ」「また俺に相談しろ」「情報を集めよ」などであり、「絶望しろ」「苦しめ」「死ね」ということではない。当然、僕が悩むというのは、絶望する、苦しむ、死ぬ、ということだ。絶望した!
こんなとき、彼や、彼なら、余計なことを考える前に行動に移すだろう。それが異常であるとは思わない。ひとえに習慣である。
これまでの経験によれば、悩むという精神のはたらきは身体的であるようだ。悩むかどうかというのは、習慣によるもので、もしはじめから悩まなければ、悩みうる瞬間が一切存在しないからだ。「判断」の入り込まない選択というのは、身体のはたらきと同じである(通学するとき、いくつもの道があるのに、いつもどおりの道を進み学校に着く。このとき判断をしていない)。あ゙ー、やっぱ論理的におかしいよお゙お゙ぉ゙ん
僕の身体というのは、よくやってくれると思う。どのようなぺースで走ればよいかを計算してくれる。どのようにプレゼンすればよいかを教えてくれる。このとき、思考を放棄している(ただし、熟練すれば話は別だろう)。
悩むというのも身体のはたらきであるなら、思考を放棄している限り「正しく」はたらきつづける。思考の側面から、この正しさを突き崩さなければならない。