けっこう楽しいよ

こんなに怠惰なのに。物凄い集中に憧れる。物凄い集中ってなんだろう。マンガだ。そんなものないのかもしれない。うそだ。世の中にはウェブにはけっこうすごいやつらいるけど、まあそれは関係ない。同じクラスのあいつだって絶対やってるよ。知らないだけ。物凄い集中してるって。したことないから知りえない。目に見えるものじゃない。それを目に見せるのがマンガの凄さだけれど。だけれど。
いくらあれでも、でもそうだからだめだ、っていうのがある。あれっていうのは程度のことで、そうっていうのは領域のことだ。ある領域においてどの程度か、というパラメータでいろいろなことをあらわせる。いくら程度がよくても、あんな領域においてなら、だめだ。だめなのか。だめなのでないだろう。だめでない。すげえ。すげえよ。
鍵括弧に憧れる。強調に用いる鍵括弧ではない。ひとの発言、会話を意味する鍵括弧である。これを遣うのが苦手だ。駆使して物語りたい。

ごきげんよう

ごきげんよう

おおなんたることかこの程度だ。無様を晒した申し訳ない。
詩とかいうの苦手だけどでもこれもけっこう憧れる。詩というのは、言語の記述機能でなく、言語のイメージ喚起機能を利用しているらしい。これは衝撃だった。ち、ちがうんだ、まじ、まじ。と思った。まじでびびった。ちがうんだ。いや、ほんとうにちがうんかこれ。いま確認のために「イメージ喚起機能」でぐぐったところ、同じ文章がいくつも出てきた。僕が読んだのもこれだ。いくつかの文章には、切り抜記たく思わせるような表情があるのだろうか。それそれそれそれだ、と指を指したくなるようなものたとえばだ(なんと、たとえばは文頭に用いるべきか)。切り抜記することで、所有するようなきがする。そういえば、こういうおもしろい物語がある。
清水義範「ビデオを見る」(『ゴミの定理』p.232-233より)

海をバックに雪乃が幸せそうにほほ笑んでいる映像。ズーム・アップ。

カット。

「すっかりリゾートライフにひたっている雪乃ちゃんでーす」

そういうふうに、雪乃の映っているシーンだけをつないでいく。

面倒な作業だったが、勝沼はのめりこんでいった。おれの雪乃を一本にまとめるのだ、という珍妙な情熱にとりつかれたようになっていた。ほんの数秒の雪乃の姿も、きっちりと切り出してつないでいく。

(中略)

おれのやってることに意味はあるんだろうかという気もした。こんな、既に持っている雪乃の映像をまとめたって、新しい雪乃はひとつも手に入らないのだ。

こんなことをしているより、今現在どこかにいる雪乃をさがすべきではないのか。雪乃は死んでしまったわけではないのだから。

そういう思いもわいてくるのだが、黙々と編集作業を続けてしまう。そのこと自体に、不思議な喜びがあった。楽しそうな雪乃をひとつの塊(かたまり)にしていくのだ。

「裾をもうちょっとはだけてみろよ」

「やだ。何を考えてるの」

(後略!)

あっれー、こんなだったけ? もっと明確に「映像を切りつなぐことで、おれだけの雪乃を所有していくように感じられた」とか書いてあったつもりだったのになあ。いやまあ、好きな短編ですこれ。あと似たようなので、桃井はるこ『2001年のゲーム・キッス』という曲が好きです。好きです。
情報と所有感のかかわりは興味深い。「所有感」ってなんだよって話ですが。僕は図書館が好きです。なぜなら無料で本を読めるからです。無料で借りた本で、気に入ったところがあればテキストエディタに打ち込んで保存しておくのですが、それでもう所有したという気になります(物語についてはその限りでない)。あとは返せばよい。む、むりょう、無料だ。かたちのあるものを、ないものを、つくりだす。そういうようなことについての記事を明日明日さんでみかけて、ああそれにも関係があるかしら。
まとめると所有した気になる、っていうのはあるよね。教科書の内容をまとめた。これでおっけー。いや、点が取れない。でもでも、もう所有も同然じゃんって思う。これを懐に忍ばせれば、点が取れるからだ。そういうことが許されないのは特殊な状況においてのみで、したがって、まとめた情報は知識の所有に等しい。そういう理屈だけど、あーあーぜんぜんだめ。そんなの知識じゃないよね。ぜんぜん、思考の負担が違う。覚えるもんは覚えとけっての。
ただね、自分の考えたことを文章にまとめて、それで、うーんなんと言おうか、それで預金したつもりになる。価値を落とさずに、放っておいて、好きなときに引き出せる。そういう感っていうのはありだと思う。所有とは逆かい。いや、逆と同じって、似てるよね。僕は「逆様に」っていう言葉がないのを疑問に思ったことがあるんだけど、けっこう「同様に」でいいかえられちゃうんだよね。明確に逆であるということは、明確に同じであるという事実のもとで支えられる概念だ。うっわー、たぶんうそだこれ。でも「逆様に」という副詞がなくても、それほど困らないのはほんとうだよね。じゃ、ごきげんよう