つまようじを刺してお召し上がりください。

ヒルな顔つきで、低い声で、ヴァニラ、と発音する。もてもてである。意中の婦女子のまえでやりなさい。
萌えるのは、仲の良い女の子(たち)。それぞれに萌えて、全体として萌える、というのではなく、彼女たち、に対して、萌えるんだ。いつまでも仲良しでいてください。
というと、どうやら嫉妬をしない性格だ。性格とかの話ぢゃないかもしれないけれど。とはいえ、恋愛に覚えがないため定かでない。
恋人と楽しそうにしている異性に魅力を感じるという趣味は、熱心なきをふし読者のかたには既知であろう。
もともと恋人を望んでいない、というのもある。というのも、物語や報道で取り沙汰される恋愛が煩わしそうにみえるからだ。
しかし僕にだって、脳内恋人はいる。恋人といえるかはわからない。とても仲の良い女の子がいるのだ。もしいれば、交際を望もう。では、それはどういうひとか。
いろいろにある。恥ずかしいので列挙しない。
素の僕とは何か。
素のないひとを魅る*1。具体的にいえば、役者さんである。さらに趣味と兼ね合わせていえば、声優さんである。あるいは、歌うひとである。
役を演じることで素を失う、というのは、乱暴に思われよう。そう発言している役者さんがいた。彼女の意見を前提している。あくまで。
学校で何を学ぶかというと、言語を身につけること、および言語と言語のあいだを行き交うための能力、であると思う。「式」を学び、「図」に橋を渡す。なぜそういうことをするのか。「式」は、たとえば、優れているからだ。「式」は、たとえば、わかりづらいからだ。かつ、そうである説明ができない。
壁をぶち壊す、といってもいい。もう少し上品にいうなら、道を通す、ということだ。もっとセレブにいうなら、絨毯をひくことだ。
抽象とか構造とかいう、わけのわからないものに目を向けるようになったのは、やれやれ大したものであると自覚する。
大学受験において英語が重視されるのはとても興味深い。研究に必要だから、という単純な理由では済まない、と深読みする。読解と、表現が、言語と言語の隔たりのなかで絡み合うのは、とても刺激的である。と思うに至るのは容易くないであろうし、至ったことがないから、これは狂言または空っぽの啓発にすぎない。
それと並列し数学が大切にされるのも、もちろん興味深い。
なぜ情報に関する学問に関心をもつのか省みた。まずいえるのは、それほどよく知っていない。あいまいな関心である、ということ。高校生のもつ学問への関心というのは、このように、あいまいな印象に支えられていることがたいがいであろう。失礼な推測で申し訳ないけれど。
事柄をモデルにはめる、ということに魅力を感じているのかもしれない、と一方で思った。たとえば数学のモデルと、経済学のモデルと、情報処理のモデルは、それぞれ別のものだろう。そのどれもに関心をいだく。モデルそのものに関心をもつ、から、だろうか。しかし情報に関する学問で扱うのは情報処理のモデルに限るのではないか。消去法で失礼だが、では哲学はどうだ、と思う。さらに失礼なことに、うーん、と、思う。とてもごめんなさい。
「システム」と「思想」という言葉がとなりに並び合っていると、とてもどきどきする。おそらく異性同士であろう。えっちだ。
ここに関心の源があろうか。例のあまいな印象にすぎないが、そのモデルは、ひとりでにうごく、という性質をもっている。自律という言葉で語られる。を、魅る。だから、といえる。
理論や機械は考えることをできない、という意見を強くもっている。理論や機械の機能を、そういった言葉でよぶ意義がないからだ。考えているかのようなふるまい、というのは、それ以上なく達成である。と思ったところで、「チューリングテスト」を思い出した。混乱する。
何に関心を向けても、それに関心が立ち戻る、という点で、それに関心をもっているのであろう。「それ」というのが、情報に関する学問なのか、事柄とモデルなのか、とくに情報処理モデルなのか、自律なのか、システムと思想なのか、は、定かではないけれど、すべてが「ここらへん」に吸い寄せられるのはたしかだ、から、さしあたっては疑いない。

*1:「──に魅せられる」と書くのが面倒なので「──を魅る」と造語した。