主観と飛躍は論理を躍らせる

酸化皮膜を形成して不動態になるというあれです。
そういう女の子はすてき*1であるなあと思いましたわけです。
たとえばこうです。いつもは仲良く話すのに、性的な話題に及んだ途端お嬢様になる。にこにこと話していたのに、急に凛として冷ややかになるのです。とても丁寧な物腰で低俗なお話に遠慮願いますのです。
思いますに僕は、壁を形成する異性を魅るのでしょう。壁といっても、それほど悲観的な意味合いは感じません。自然です。いまどきの若者は、ふつうに「まぢモード」とかをもっていたりします(実践する者はわずかですが)。ある種、パフォーマンスなのです。そういうパフォーマンスの巧みな異性を、僕は魅るのでしょう。
空虚な萌え論ではありません。級友にだって、いますよ。あるいは、役者さんでしょう。
しかしパフォーマンスであるがゆえに、奥に踏み込むことが難しそうです。「つくりもののきみじゃなくて、本当にきみをみたいんだ」という魅言*2は、「くさい」とか「いたい」とか評す以前に、意味を成さないことが多いのです。僕が彼女のパフォーマンスを魅たとき、僕は「その奥」や「本当の彼女」を探る価値を失います。これもまた自然でしょう。
しかし、これ、あまり共感を頂けませんでしょう。わかります、わかります。猥談を柔らかにお断りする女の子に対してなお強気に出て、本当の彼女を暴いてみたい、という動機は大いにありましょう。でも、それ、あまり嬉しい結果にはならないと思います。護りたいもののために壁をめぐらせることは、僕たち、あまり、やりませんから。
いやはや、まいるなあ。とても主観的にすぎる。
そういえば、こういうことを思ったんですよ。「主観的な言い回しのほうが客観的にきこえる」です。
たとえばこうだ。「ここ数日の僕の感覚によれば、現代の若者における自我について述べた上の文章は、おおむね真理である」
「僕の感覚によれば」というあたりが、最高に客観的です。
こう言ってみよう。「このデータによれば、現代の若者はこういう精神的な悩みを抱えている」と。どうにもおかしいのです。データと結論のあいだを結ぶものは何か。
ばりばりに主観的に言い回せばよいのです。

*1:素敵は素的の当て字らしいです。素的のほうが素的にみえます。

*2:みげん、とでもよびましょう。