新聞と世間コミュ・キャパ

新聞を読んで気づいたことがある。世間には思う以上にたくさんのコミュニティがある。組織や派閥といったものを含める、かなり広い意味で捉えるなら。もっと直接的に「ナントカ愛好会」とか「AをBする協会」とか、いろいろある。そして、それらのどれもが「一定の指向性」「共通する目的」のうえで成り立っているのであろう、ということに、世間の奥深さを垣間見た。地元紙なので、その大部は地理的には極めて身近なものだ。この国、この世界、となれば、どれほどのものだろう。
なんらかの共通点があるひとびとの集まりをコミュニティとするなら、それらはどういった意義をもって成立しているのか。共通する目的を果たすための情報交換・刺激の与え合い・共同作業などはいかにも明確な意義である。「みんなでがんばる」「『ひとりでがんばる』ためにみんなと関わる」という、いずれにせよ、ひとりには限界がある、ということ。
目的遂行のためではなく、単なる娯楽としてのコミュニティもありうる。同好のひとたちが集まり交流する。それだけを目的にしたコミュニティもあれば、明確な目的意識のあるコミュニティが有効に機能したときの副作用としても、この娯楽性は期待できる(前述の「刺激」の一種)。楽しいことはいいことだ。
では、ある目的のためにコミュニティに属することは必須事項なのか。そんなことはない。なぜか。わからない。なんだよ。もう。しばらく独りでいたいんだ。
ところで、こういったローカルなコミュニティと、ネット上におけるゆるいコミュニティとの違いも興味深い。それをも含めるなら、僕はさまざまなコミュニティに属しているといえるし、そのうえで独りを叫んでも滑稽に過ぎない。その部分を自身がどう捉えているのか、ということは興味深いが、我ながらつかみどころのない問いなのは気のせいだ。ああ、倒錯してる。
何が言いたいのか。書きたいことしかない。