サボるという選択

05/02:1121
きょうは学校に行く気がしなかった。いまもしていない。いや、きたんだけど。この授業はクソである。つまらないしためにもならない。授業の終わりに出席レポートがあるので足を運んだまで。それにしたって、たいした意味があるわけでもない。
きょうはあとふたつ授業がある。それをどうしようか悩んでいる。つまり、サボるか。先日、あんなことを書いたばかりだ。授業の価値に関わらず、出られる授業にはすべて出ようと。出ればいいじゃん、くらいの姿勢だと。その方針を貫くのであれば、僕はあとふたつの授業に出席するべきだ。そうでないのであれば、それは堕落という意味である。
しかしあまりに気が進まない。価値がないから? 無駄な時間になるのがオチだから? それもある。しかし、より反転が強まった表現として、「ほかにやるべきことがあるから」「もっと大切なことがあるから」というきもちも否定できない。言い訳だろうか? たしかに、これらのタスクはここ数日における非効率な生活を改めていれば発生しなかったかもしれない。しかし現在問題として、これもまた向き合うべき事実には違いない。
さいきんはわりと素直に葛藤している。葛藤とはこういうものか、と、いまさらながらに中学校の社会の教科書を理解できた気になった。葛藤とは、選択における悩みである。たいてい、二択。シンプル。人間のこころってそういうものだから? それはさておき。
葛藤は無限後退的な悪癖をもっている。たとえば「Aを選ぼう」と自分が「判断」したとしても、そこに深く食い込む「B」という障害によって「判断」そのものに疑わしさを感じてしまう。そうすると、その判断は「A」なのではなく単なる「非B」なのではないか、「本当は」「B」なのではないか、その「本当は」は「うそ」なのではないか、と不信感がふくれあがっていく。つまり自身の「判断」に対する「判断」が再帰的に掘り下げられていく。このとき、「本音」なんていう言葉は建前ほどの意味しかもたない。
冷静に考えても、合理的に考えても、そう思っているだけじゃないか、つもりじゃないか、という閉鎖性がまとわりついてくる。判断を信じることは難しい。それ自体、判断を疑うことの裏返しなのだから。考え直すたびに結論が異なるかもしれない。そんな、葛藤を解消するには、どこかで自分の判断を信じなければならない。どこで? それに答えはないだろう。
ある先生が「休む勇気」という言葉を遣っていた。僕は生活習慣を向上させるために、出られる授業にすべて出ようという方針を定めた。この前提に立てば、先生の言葉はまったくのナンセンスだ。僕に矛盾する、ともいえる。でも、もうすこしこの言葉の意味を考えてみたい。
先生は授業に出なくてもいいとおっしゃった。自分で勉強してレポートを書ければいい、という意味で、わりと好感のもてる意見だと思う。より強調すれば、こういえるのではないか。授業よりも、自分で勉強するということに、より価値を見出すのであれば、その判断を信じろ、と。もっといえば「自分をもて」と。
05/02:1158
そういう捉え方をするのであれば、共感の度合いが途端に高まる。出られる授業にすべて出るという判断も、僕が自分でおこなったものだ。そしてそれは「休む勇気」という先生の言葉をしりぞけて自立した。しかし、ここでさらに「休む勇気」という言葉の背景、つまり「自分をもて」というメッセージよって、「出られる授業にすべて出る」という判断に揺らぎが生じた。どういうことか。こうだ。授業に出るよりも重要なことが、いまの僕にはある。それを信じ、おこなうことは、立つ、という根本的な方針に反しないものだ。したがって、「授業に出る」という「形式化された目標」を、しりぞけてまで! この判断を優先する価値は、ある。
ところで、次の授業には出ようと思う。これは出席をとる授業ではないし、一回くらい休んだところで習熟には大した影響が出ないと思う。だからこそ、と言うとすこし手抜きだけれど、やはり興味と引き合う部分が大きい授業だから、これには臨もうと思う。もちろん、この時間をいまやるべきほかの作業に充てるというのも間違いではない。ただ、それに劣らない価値がこの授業にある以上、形式化されたものとはいえ、「出る」という方針に素直に従うのが利口だろう。
その次の授業はサボる。これは必修授業だし、もしかしたら出席を取るかもしれないが、サボる。この時間をやるべき作業(パソコンでできるもの)に充てることもできる。けれど、授業に気を取られていては効率が下がる*1。それならいっそ、図書館でじっくりと取り組んだ方がよい。あるいは、ほかのやるべき作業(街でできるもの)をさきに済ませるというのも好ましい。
休むことには、確かに勇気がいる。僕の場合、それは自身の定めた形式的目標に反するのだからなおさらだ。しかし、根本的なところ、意味的なところでの矛盾というのは、ない。とは、言い切れないかもしれない。というのも、その判断が正しいかというかは、事の済んだあとにしか評価できないからだ。いまできることは、冷静に、合理的に、考えることだけ。さらにいくらかの疑いをかけて、どこかでその疑いをしりぞける。そして信じる。
「いまやるべきこと」というのをほのめかしていたわけだが、その詳細についてはプライベートなため明かさない。明かすことで得られるメリットも考えがたい。ただいえるのは、これらは「僕が」やるべきことだと判断したものであること。一方、世の中には外的なやるべきこともある。大学生二年生である僕に関していえば、課題とよばれるものだ。では、この内的タスク、および外的タスクに関して価値的な違いはあるか。個人的な観点からいえば、タスクを処理するという鍛錬において、両者は等価値である。その出どころに関わらず、自身の生活を改める要素として、僕は同じだけの真摯さをもって向き合うのだ。

*1:この表現は我ながら爽快だ