「いまを生きるわたし」または時間と情緒

気軽に何度も聴き返せるのが音楽の特徴だろう。表現のパッケージングが適度、ともいえる。もちろん、だからといってそこに込められる主張や物語が浅いということはない。しかし不思議だ。たかが数分、特別に長くても一時間程度の「曲」に、どうしてそこまで情緒が詰まっているのか。またそれを繰り返し聴くことによって、自分の中にどんどん情緒を膨らますことできるのは、どういうことなのか。
物語を語る時間の長さ、つまりは表現における言葉の量、また修辞の複雑さなどは、物語のスケールには依存しない。何に注目するか、どこを強調するか、ということは、表現の本質に関わる。物語の中で設定された「暦の振幅」は、表現に要する時間、結果として、解釈に要する時間、すなわち「物語時間」とはべつの次元にある。
ところで、時間といえば主観的な時間と客観的な時間の対比がよく語られる。気になるアイツといっしょにいるとき、アっという間に過ぎ去る時間が主観的なそれで、ベルクソン時間とかカイロスとかよばれる。まさにわたしがいま感じている、あるいは振り返って実感する、「主観時間」。まだ、もう、たった、やっと。これらは主観による幻想である。
しかしストップウォッチで計ったとき、その値に揺らぎはない。ニュートン時間とかクロノス、日常的には「物理的な」時間とよばれる。より日常的なニュアンスを込めて「生活時間」とよびたい。というのも、生活において、物理的な時間は「主観時間」との対比において「意味」(まだ、もう、たった、やっと)を実感できるからだ。成果や効率、あるいはゆとりといったものを評価するとき、「生活時間」自体は尺度としての機能を一切もたない。



言葉選びの誤差はあれど、「主観時間」と「生活時間」の対立というのはよく考えられる枠組みだ。ここに「物語時間」という軸を加えることは、情緒と時間の関わりを考えるうえで重要だと思う。
「主観時間」は極めて質感的、つまり記述困難であいまいな感情である以上、「いまを生きるわたし」という豊かな感覚を語るには機能しない。「いまを生きるわたし」というのは、「わたし」に対する表現という、時間的質感からは逆走したかたちで形成される。いわば、「わたし」という「物語」に関して、その「物語時間」と「生活時間」との比較によって醸成されるのが「いまを生きるわたし」という幻想である。
「わたし」が「物語」であるというのは、わたしが「わたし」に対する表現を試みることこそが、「わたし」という感覚の根拠であるからだ。それは必ずしも計測や分析に適したかたちではない(質感)かもしれない。しかし、そこに用いられるのが(なんらかの意味で)「言語」である以上、精確さに限界はありながらも「物語時間」という尺度によって捉えうるのが、「わたし」という物語である。

ブログについて考える。ブログの運営は「生活時間」と直結して継続される。書き手にとっても、読み手にとってもだ。数十時間の空白は、数十時間の空白として読み手に伝わる。一ヶ月前の記事は、書き手にとっても読み手にとっても一ヶ月前の記憶としてのみ捉えうる。もちろん、読み返すのならその限りでない。限りなくリアルな時間の積み重ね、あるいは間隙、ときには断絶によって書き手と読み手は「生活時間」を共有する、またはしない。
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「いまを生きるわたし」について考える。
気づいたら、五時間、パソコンの前に座っていた。このとき感じるぐんにょりは「生活時間」に対する「主観時間」のはたらきによる。また、物語を物語るだけの内容がないよう、ということで、「物語時間」は微少である。ある意味、「物語時間」とは「物語られるのに要する時間」という側面もある。または、「思考停止の度合い」と捉え直すことも適切かもしれない。
「主観時間」によるがっかりは、局所的なものに過ぎない。憂慮すべきは、「物語時間」が収束に向かうことである。もう一週間か、という危険信号は、「主観時間」とはあまり関係がない。あまりに語りえないことの自覚。そして、それそのことをさえ「物語」の外で漂っていた「わたし」の停滞。気づいたら、もう──という感覚は、「わたし」の収束を知らせる警報である。

全体的に、言葉の枠組みに不明瞭な点が多い。そもそも「物語時間」は時間ではないのだから。勝手にいえば「表現時速」である。あるスケールに対して、日常においてこのスケールは一定であることが多いのだが、そこにどれだけの言語的表現を費やすかという量、結果として、振り返ったときに算出される密度が、「表現時速」である。
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そもそも、この文章を書こうと思った無謀は、あまりに「いまを生きるわたし」が矮小化していたことが発端である。一方で、それとは無関係に、ある音楽の「物語」性に感動し、その「物語時間」の大きさ? 長さ? 濃さ? を痛感し、人生における時間の意味、情緒との関わりにある時間の実態、というものに疑問をいだいたからです。
作品における「物語」のすばらしさが、その作品を楽しむことに要する「生活時間」に関わらないことは、わたしによる「わたし」の表現においても同様でありましょう。だから、単なる「主観時間」とはべつの、表現を軸にした尺度を必要に感じたのです。
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