文脈について

もろに個人的なメモです。「参考」にしてください=僕の「文脈」を奪ってください(笑)



私日記 - 私の文脈はがまの油と等価です。
明らかに僕の言葉遣いが悪いなあと反省する。というのも、僕は「文章から読み取れないもの」と「文章から読み取れるもの」というまったく逆なふたつの事柄を、同じように「文脈」とよんでいるから。このふたつに対して「文脈」という言葉を解体する必要があった。
それをやるまえに以下のことをつらつらと書いたのでかなりわけのわからないことになっていますが、まとめることはいつでもできるので、とりあえずは雑多ながらもそのまま垂れ流しておきます。
課題:「文脈」という言葉の解体、「情報環境」の定義、「再帰的」のより端的な説明

「文脈」はふたつどころでなく、よっつくらいに解体すべきか? 自分の日常が置かれている環境:劇場。日常のなかで起こる、何かを書くに至る刺激・こころの動き:物語。「文脈に対する問題意識」としての「再帰的な文脈」。客観的に読み取りうる辞書的な意味での「文脈」。劇場と物語は言ってみたかっただけ(笑)

再帰的に包括」について補足(id:kiwofusi:20070701:1183264663)

(言及記事を読む前に書いたけど雑だからボツにしたけど参考にはなるかもしれないのでやっぱり載せる)
たとえば大学の授業を題材に日記を書こうとすると、その「元ネタ」は「大学」という環境、および「○○先生」というモチーフなんかがあるわけなんだけど、これをたとえば*1大学SNSに書く場合、「大学」に関する前提はかなりの程度共有されており、「○○先生」というモチーフをそのまま「概念」として文章に用いることができる。
この文章をウェブに公開して、かつ同程度の理解を期待するためには、僕の「大学生活」というロングスパンで現在進行的な概念をすこし「説明」しないといけない、または、(仮に)僕が日々「大学生活」について日記に書いている(としたら、その)ことを読み手が追いかけて「文脈」を形成していないといけなく、たとえそれにしたって「○○先生」という概念を説明するには、ひとを語るという高度な表現と、かつプライバシーの問題なんかも絡んできて、まともに「説明」するためには非常な手間を要する。



まとめると、問題の本質は「環境」や「モチーフ」でありながらも、それをどう伝えるかという観点から「文脈」に対する問題意識が生じる、という感じ。言い換えれば、「環境」や「モチーフ」をいかに「説明」するか、または、その「説明」に価値はあるのか、ということ。

↑より先にもっとさらっと書いたVer.

2007年07月01日、某所より

むしろ僕は文外脈をも文脈に含めてしまっているのか。むしろ「環境」や「モチーフ」と言い換えた方がいいだろうな。ただ、それが書く場所によって説明要求が異なるという点で、結果として「文脈」の問題に落ち込むんだよな。

「説明」について

はてなブックマーク - S:今日の一言 - きをふしファンサイト宣言b:id:lsty

「わかる?」→わかんねーよ→わかるように書けよ→わかるように書く→でも、わかるように書かれた文章は→はたして→「わかられて」いるのだろうか?

知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - より多くの人に受け入れて貰いたいなんて微塵も思ってない

どう言葉を使っても、俺との距離が離れてる人は誤解する。そこに配慮した言葉を使おうとすると、それはもう俺の言葉ではなくなる。

「環境」について

kuso2731(旧:情報学部へようこそ) - リッチメディア産業における芸術

結局のところ、自分の中で感じている直感的なもの、無意識に近い水準の問題意識のようなものは、その意識が私の意識を構成している情報環境と切り離せない以上、伝達するのは無理なのではないかと考える。

id:quaint1719さんの「主観」という言葉に代えて、僕はこの「情報環境」を強調したい。かなり思い切った定義で、我ながら自信をもてないのだけれど、「文脈」とは、「情報環境」を「説明」した結果として表れる「文脈」だと思う。
なぜこんなあほみたいな言い回しになるのかというと、先に申したように「文脈」に対する問題意識は、文章や日記を書くきっかけとなったこころや生活の動きと、そして、そのさらなるきっかけ=「情報環境」に対する注目によって発生するから。これを「再帰的」とよんだ。
ロングスパンで現在進行的なものであるが、「情報環境」は言葉によって「説明」可であると思う。もっとも、それが困難であるため、引用した文中で述べられているように、特殊な状況をつくりだして「情報環境」の共有を図るのだろうが。なんにせよ、「情報環境」には客観性=「説明」可能性・「共有」可能性があり、その点で「主観」と言い切るには納得できない。
さらに「情報環境」の「共有」は特殊な状況をつくりださなくても達成されると思う。単純に、適所で語ればいいのだ。ある組織に関する主張をしたいのなら、(もしあれば)その組織のSNSでおこない、はてな村批判をしたいのならはてダでやればいい。それができないとき、または、そういう閉鎖的な表現に満足できない場合には「説明」が求められる。
では、どうすれば「情報環境」を的確に「説明」できるのか。「説明」のうまくいった文章は、結果としてどういう「文脈」をつくりだすのか。これが僕の問題意識です。



「情報環境」に対する解釈が自分なりに定まっていない。リッチメディアを論じる本文を言語表現に引き寄せたときに生じた無理か。とくに「説明」して理解される「情報環境」と、「共有」される「情報環境」を同質のものと捉えるのは無理があるなあ。

ウェブにおける自己同一性

僕の問題意識をさらに具体化すると、ある「情報環境」に{おいて/よって}得た感情・思考を、「どこに」書き、どの程度「説明」を試みるか、ということです。大げさにいえば「感じたことをそのまま書けばいいんだ!」という意識に対する限界を感じるとともに、「ウェブ上にいる自分は自分にほかならない」という確信に対する揺らぎを感じているわけです。
これはなかなか象徴的なのですが、そういったことをいくつもの場所で書いているのです。「どこで書いてもいいんじゃない?」「書き方なんでどうでもいいんじゃない?」という疑いを一方ではもっている表れですね。

2007年06月27日、某所より

ここに限らず、公開されていないところでよく日記を書いているのですが、そのほとんどは「公開しても問題はない」というレベルなのですよね。しかしなぜそうしないかというと、やはり文脈に対する依存が根強いからです。

これはウェブ日記によって読み手に何を伝えるのか、という運営思想にも関わるのですが。日々の閲覧から「わたし像」を感じてもらいたい、と考える場合、そのとき提供されるのは実質として個々の文章ではなく、読み手のなかで起こる動的な文脈の絡み合いです。

その目的意識に立って日記を書くとしたら、最大限の伝達を目指すためには不足している文脈を展開して記述しなければなりません。それは負担が大きいことです。したがって、そもそもの文脈が通じている場所に書くわけです。

もちろん、これは日記の意義を自己規定するときにのみ意識されることであり、価値は読み手によってこそ決められるものだ、と考えるなら、そういった心配は無視して、ただ公開するだけでもよいのかもしれません。

結局のところ、僕がウェブ日記というものに対して構えてしまっている、という現状によるのでしょう。大胆に解釈すれば、これは僕という人格において文脈が分断、偏重しているということをも示します。

これをいかに再統合するのか、また本当に再統合すべきなのか、ということを問う意義は尽きないものと思います。

小難しい屁理屈を抜きにしていえば、僕は読み手の楽しんでもらいたいとのみ思います。その点で、こういった文脈に対する配慮は読み手にとって逆効果になっているかもしれません。

文脈というよりは固有概念の有無または強度として捉えたほうが的確かもしれません。これはプライベートにも干渉するおそれもあり、ひとつの論点に足ります。これも大胆な解釈ではありますが、思考停止に至る知性の単純化につながる危険もあります。

そこで重要なのが、固有概念を思考の道具として活用しつつも、その概念の展開に対する意識を忘れないようにすべきだということです。いわば観念化された具体名詞のさらなる抽象化といえます。この視点によって思考の立体感と可搬性が向上します。

思考の可搬性とは、とりもなおさず表現の可搬性のことです。記述の仕方を工夫することで個別に可搬性を高めることはできますが、それをシステムの次元で支援するのがたとえばはてなキーワードですね。ほかにも表現の可搬性を高めるアイデアがないかというのは、思いつきではありますが、個人的に興味深いテーマです。表現の可搬性など、もともと気にしないのであれば、それだけで済む問題ではありますが。

2007年06月12日、某所より

立場は環境に依存します。表現は立場に依存します。思想は自由です。しかし社会的な「人格」は、その意味で自由ではありません。

さすがに「人格」を自由にしようと言うつもりはありません。それはいろいろ壊しすぎざるをえないからです。実質的に、自由に近づける方法ならあります。依存選択肢を増やすことです。あるいは依存選択可能性を増やすことです。

選択肢のひとつがウェブです。と同時に、選択肢の複数がウェブです(中略)。可能的選択の自由において立場の論理和的可能性が増大し表現の実質的自由、つまりは人格の実質的自由は程度をもって実現されます。このとき、それらの層から思想という層に対しては一切の干渉は発生しません。

しかし現実には違います。立場が無自覚に前提されたとき、「人格」は閉鎖的に自由です。閉鎖的自由が無自覚に前提されたとき、思想は選択肢に依存します。

思想を表現したいときに、許されない場合がありえます。逆に、許される場合に、思想を表現すればよいです。しかしそれこそ、思想の不自由を意味します。

この表現という言葉に社会的な含みをもたせて用いていることに気づきました。解体しましょう。よびかたはどうでもよいのですが、思想を言語化する日記というフェイズ、言語化されたものを社会化する……えっと、表現(笑)というフェイズ。しかし表現の不自由は変わりない。ここが妥協点だろうが。

日記というフェイズを中心に自分をもち、完成されたモジュールを場合に応じて表現に適用する。これはシステム化しにくい。ライフスタイルは微妙な心理に左右される。あるいは、解釈の仕方ですらある。

立場による不自由は微妙な原因によることが多い。たとえば、固有名である。これは削除または換言すれば事足りる。モジュール内部の構造に大きな改造は要しない。それ以上に微妙なのが、情緒である。ときに固有名に対する小細工を許さない。あるいは、主観的には等価であり、かつ社会的には不協和である、あるふたつの事柄、という問題に突き当たる。そのとき、モジュールそのものに崩壊の危機がおとずれる。

*1:もはやたとえばというレベルではないのだがw