真理の存在と同時にその不可能性を理解するとき

だいたいハタチ前後まで生きれば「悩んでも仕方ない」ことのふんべつくらいがついてくるわけだけど、その標語が正しく機能したとき、つまり身体や環境に対して自我を委託するときだけど、それはもう、真理とは何かという問いに対して、それは知ることのできないものだ、と定義するに等しい。まず、知ることに価値のないものだ、という価値観の転回が準備される。だからこそ、それに価値がないということを定めることはできない。内側を外側から眺めるのことと、その外側を内側から眺めることを、同時におこなうことができないからだ。
こんなことは言い訳。わかってる。価値観の転回に対する柔軟さをも含めて、その者の精神的な熟成が評価されることもまた、社会的に集合された価値観のもとでは明らかなのだから。ただ、それに従う道理はない。なんのためのモラトリアムだ。なーんていう、全力にして無力の理屈を放ってみる。