自己実現は言葉を越える

なぜ、オタクでないことに=オタクであると胸を張れるほどの「教養」がないことに、後ろめたさを感じるのだろうか。オタクという名札は単純なアイデンティファイ*1として便利である。かつ、ふつう自己実現において避けがたい生々しい苦痛が伴わないため、ある種のひとたちはオタクを志向する。僕もそのひとりである。
趣味の多様化が著しいこんにち、オタクの定義はますますあいまいになっている。僕なりのとらえ方としては、「――ならなんでも」という「選択と集中」による絶妙な「広さ」と「狭さ」の両立こそがオタクの実現であると考えている。僕はこの「――ならなんでも」という指向性、言い換えれば「ジャンル差別」*2という感性が欠けていて、「狭さ」の伴わない「広さ」つまり「浅さ」に嗜好がとどまってしまう。
ところで、「――ならなんでも」というのは言葉の綾が強くて、「物語ならなんでも」「いいものならなんでも」と埋めると逆に「ジャンル非差別」を意味することになってしまう。ただ、階層性というものを考えたとき、より上層(形而上)に向かっていく姿勢が、僕がオタクでないことを示している。逆に、より下層に、つまり「広さ」にさらなる「選択と集中」を試みて「狭さ」を深めたのが「コア」なオタクということだろう。
オタクであることの証明は陣取りというイメージで捉えられる。明確な塀や壕に囲まれてこそ単純なアイデンティファイとして機能するからだ。しかし、はっきりとした枠線がみえないからといって「教養」の質や量が漏れ出すわけでもない。
みずからに誇れ、かつ端的には説明しがたい自分を、なんとか単純なアイデンティファイに落とし込もうとするには「自分」という名札を用いるしかない。「自分は自分なのだ」と。しかし社会性=名札の慣用性は失われる。または、単純なアイデンティファイに対する価値を転回して、そういった試み自体を退ければよい。
そのことで生じる問題というのは考えがたい。他者との単純なコミュニケーションが不便になるかもしれないが、そんなものは偽りと見繕いにそもそも満ちている。それよりも重要なのが、線引きされていない自分をどうにかして伝えることだろう。もちろん、それはとても高度で、焦って取り組むようなことではないが。
単純なアイデンティファイを諦めた自分をいかに保つか。これは本人の意志によるというほかない。柵を取り払ったからといって、敵に侵されるわけではない。柵は外部に向けられたものではなく、内部にある戸惑いや不安を抑圧するためにあったのだから。
単純に、ひとのある数だけひとがいるとしたら、言葉の数との兼ね合いで確率的に考えて、自分なりの指向性を実現しようとしたら、それが達成されるにつれて、簡単にひとに理解されることは難しくなる。しかしそれは、自分をもちさえすればひとに理解されなくてもいい、というわけではない。このジレンマを背負う価値がないと判断するのならば、べつの策を図ればいい。それを許容するだけの社会なのだから。



↓僕はそういう意味で捉えたのだが、どうなんだろう。
http://twitter.com/marco11/statuses/91392922

*1:「人生においていろいろと不確かなことは多いが、とりあえずおれは『オタク』なんだ」というこころの落としどころ

*2:空中キャンプ - わたしはジャンル差別します