前半と後半でまったく論旨が異なることに注意

自分の「できる」ことってなんだろう、という問いには物心ついたころ(僕は物心ついたのが高校一年の後半くらいだと自覚しているw)からずっと反問して煩悶している。より単純に「特技欄」に何が書けるだろう、と言い換えても、まったく検討がつかない。例の話にもつながるのだが、「――ができる」という表現は「――ならなんでもできる」という脅迫観念を包含していると感じる。「――ができます!」「じゃあキミ、これお願いね」「あ、その――だけはムリなんです」という展開は許されない。
まあそれでいいじゃないかと思う。学生に、大学二年生に何ができるか。なんでもするということができる。虚言ではない。大学という組織における構成素全体のなかで相対的に自身の立ち位置を評価するなら、これほど自由な身分はない(⇔教員ほどry)。
どういうことか。ある部分において教員に抜きん出ることは非常に容易だということだ。それは教員の評価基準を逸脱するということでもある。より大げさに一般化すれば、みずから新しい評価基準をつくりだすことでもある。オンリーワンを意図するというパラドクスにも触れかけるが、そもそも自分のやりたいことが規定の枠組みに合致することは、そちらのほうが偶然とみなせる。
何がいいたいのか。学生には可能性があるということだ。逆に、たいていの学生は、可能性くらいしかもっていないということだ。いや、意味わかんねえwww



みなさん(謎)をみていて思うのは、みなさんにもとから「できること」があるわけではなくて、ある目的に応じてやる、結果としてできる、という構図が見出せること。そうやって積まれてきた「できること」が、次の目的を「やる」ためのツールになって、「できること」の連鎖が広がっていく。その姿勢そのものが、現実的・実質的な「できること」にほかならないのだ、と思った。
「できること」など幻想だ、取るに足らない、などといいたいわけではない。むしろ逆だ。「できること」がなければ何もできない。何かをやるためには、そのより低級な何かができる必要がある。そして新しいことができる。矛盾も甚だしいが、「できること」とは前提でもあり成果でもある。だから、「できること」について考えることは、実際にやることと切り離せない。そういってしまえば、当たり前のこと。
なるほど、こう言い換えると非常にハッピーである。「Aができます! というのも、いまAをやっているんです!」「じゃあキミ、B(Aの部分集合)お願いね」「はい、Bはできませんが、C(Aの部分集合)ならできるので、Cを使ってBする方法を勉強すれば、Bができます!」。彼を「Aができない」と言うことは、まったくもって妥当ではないだろう。
繰り返しになるが、できなくてもいい、ということではない。できなくてもいいからこそ、自分の「できること」に自信をもたなくてはならないということ。勝手な言い方をすれば、可能無限的な帰納によって領域を囲い込むということ。どんなに小さな部分集合でもいい。道具を使って道具をつくることこそ、人類が積み上げてきた知性の歴史ではないか。