生産性について

難しいことはやらない。できないことはやらない。やらなかったことはやらない。やりたくないことはやらない。ゆえにやるために、楽しさと価値の一致、とか、プロセスと成果物の一致を考えようとする。
でもまってなんでできないことをやらないか、っていうと、できないって何かっていうと。
想像できないことはできない。想像できないことはやりたくならない。やりたいと思ったなら成功を想像している。かっこいい成果物とかかっこいい成果物をつくったかっこいい自分がある。そのかたちは想像できないかもしれないけれど、ある架空のかたちにかっこよさが宿ることを想像している。言い換えるなら可能性を理解している。ならそれをやろうっていうなら、可能性をかたちに砕いていく。
想像できないことはできない。かたちの手がかりがないからだ。想像できないことはやりたくならない。価値の可能性、かっこよさとかおもしろさとか美しさの可能性を理解できないからだ。簡易に、できないことはやりたくならないと考える。
いや本当にそうかっていう。価値とかたちを想像できないレベルのできないっていうのはたしかにあって、でもそういうのは意識にのぼることがレアで、そのレベルのできないっていうことに悩むっていうことは、そういう抽象レベルでしか悩みようがなくて、つまりは想像ができないっていう事態を具体的に悩むことはできない。
もうちょっと現実的には、可能性をかたちに砕くことが難しい事態に悩む。くそ率直にいえば、できるかできないかわからない、とか、価値からさかのぼったできないとおかしいという思い込みが悩みの種。価値からさかのぼったできないとおかしいという思い込みは信念とか使命とかいうといけてるけど、そこに俗的な制約をもちむとうっせうっせどうでもいいわってなる。でも本質的にはそんなの関係なくて、力が……足りねえ。
かたや、できること。できることは友達の価値だ。できることをやることは力の境界の内側の確信だ。境界の外側に身を移すことは失敗に尽きる。我々にできることは境界を内側から押し伸ばすだけ。だから、できることと、それと僕なら、おもちゃがいっしょにないと、できないことをできない。友達は死に至らない力不足。
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