記録・表現・意識

文字を出していると文字通り「思っていない」ことが出てくるわけだけど、それって考えてるときとか、脳内会話しているときと何も変わらない。意識できないことが目の前に現れてしまうから、これは本当に自分なのだろうかと同一性に疑問をいだくのも、それが記録されるからだ。「ふだん考えていること」ことは記憶と忘却のふるいから散る粉雪のようなもので、そこに対する反省とかメタ認知なんてのは実感から差し引いた、または掛け値をつけた見方をしないと現実に届かない。もしかしたら、という前提はぬぐえないけれど、「思っていないこと」を「ふだんから思っている」にも関わらず、それは「思」われることなく、「ふだんから思っている」ことだけを思っている「つもり」になっている。それこそを「ふだん」とよぶのだから。このように意識と表現が同一できないことに同意をいただけるなら、記録と連動した表現は、絶え間なく意識を疑い続けるまねであるといえる。そこには疑いの余地しかない。ま、その炙り出しを無意識なんてよんだら話はかたづくんだけど。