桜庭一樹『ブルースカイ』

すばらしい作品で、まともに語れる口をもたない。とかいってなんか書いてみた。自己満足が過ぎる。し、ぜんぜん語りきれていない。
全部を通して、言語というテーマが深く関わり合っているように思える。
第一部、マリーが記憶を語るという形式で書かれている。しかし、文語的な表現を体得していないであろう彼女が、このように記憶を明文化して再生することができるのだろうか? 書き言葉を中心に生きてきた僕からみると、彼女がどうやって文法的な話し言葉を身につけたのかも疑問だ。「少女」の対照を成す、この言葉を。
本当に彼女は、ここに「書かれたこと」を「思って」いたのだろうか? これは作者が書いたものではないのか。とはいえ、この時代、この環境における言語教育の実態について詳しくは知らないし、言語と心理の関係についても知識がないので、ひとまずの思い込みにすぎないが。つまり、マリーは書き言葉をもたない。よって、彼女の「記憶」は、それ自体を表すものではない。
第三部もまた、独白によって書かれている。文法的な話し言葉をもたない「少女」は、ここで確かな文語を操っている。第一部とは逆に、ここに書かれたことは彼女の「独白」そのものであると思う。逆にいえば、この「独白」は文語による表現である。方言をそのまま用いるという演出は、内面と文語の一体性にリアリティを与えるためではないか。
それよりも未来、第二部において言語はどのような位置づけにあるか。時代と文化をたがえて、本来関わり合うことのない「少女」と「青年」、彼女と彼のやりとりによって、言語によって伝わるもの、そして伝わらないものとの境界に立ち臨むような深みを感じた。
翻訳というツールによって「少女」と「青年」はある程度の情報交換をおこなえる。これは英語というツールによって「少女」とマリーのあいだにも実現されたことである。情報交換をする、言語というものの基本的な機能のひとつが示されている。
言葉にはときに情報を超えるものが託される。ソレをなんと呼ぶかはさておく。「少女」のソレはたとえば「かわいい」という言葉に託された。「青年」はソレを「おもしろい」と翻訳した。情報交換による、理解を共有するという実現。ひとは、情報を超えたものを伝えることができる。

「青年」のソレはたとえば「対象物」という言葉に託された。ソレは翻訳されなかった。ソレは私的言語なのか。そうではない。「青年」のソレはべつの「青年」に説明でき、また、もしかしたら、僕もソレを理解している。ソレは「少女」に伝わらない。
「少女」はソレはたとえば「せかい」という言葉に託された。「せかい」という言葉は「フレンド」という言葉に託された。「青年」の「対象物」たりえない「ビッグマム」のソレは、きっとある言葉に託されただろう。そのある言葉は「フレンド」という言葉に翻訳された。「少女」に、「ビッグマム」のソレは伝わったのだろうか? はたまた、伝わることは、幻想なのか。
「少女」の名は「ブルースカイ」と翻訳された。

ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)

ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)