寸感:読まれるためとしてのテキストプレイ

僕はまだ適すとプレイを試みたことがないが、そのもどきを試してみて考えたことを書いてみたいと思う。その内容は、主に、僕はテキストプレイなんてしなくていいや、してもしょうがないや、という、つまりは個人的なテキストプレイ批判なのだが、それ自体、10分書きで書くという訳の分からないメタ自己矛盾で遊んでみるてst。さてテキストプレイの基本的なルールを確認していこう、と思ったがそんなことをすると時間が持ったないので感想を中心に書いていくことにしよう。まず、10分間という縮小版に限って言えば、書き手にとって苦痛はほとんどない。ただ思っている事を書くだけだし、それが出てこないときには目に入るもの、感じている五感にまつわる描写だけで足りるし、そこから話が発展していく。しかし読み手にとってはどうだろう。ただの冗長な駄文である。そこに書かれる文章の程度が低いと言いたいわけではない。速さだけを求めて書かれた文章は立派ではない、と言いたいわけではない。ただ単純な理由、長い、改行がない。それだけの理由で、この世界では、情報量がパンクするのだ。だれにもつたわらない。また、それは先に申したことと矛盾するのだが、やはりゆっくりと考えながら書いたり、書き直したり、書き終わったあとに修正を加えたほうがおもしろい。それは内容の問題というよりは、単純な文体のバランスである。もちろん、テキストプレイによって表現される文体にも魅力はあるかもしれない。しかし、そも読んでもらってはじめて伝わりうるものである。というわけで、僕は改行なしに続けるテキストプレイのルールには喜べない。このようにノンストップで後戻りナシで書くことには一定のおもしろさを感じるので置いておくが、改行について。まず、改行というのは文字であると僕は感じている。ここで意味が大きく変わる、またはある程度体系だったうえで、言うことがちょっと変わるから、そこんとこ注意しておけというメッセージで、それは国語の授業で教えてもらうような場面を展開する接続詞と、機能としてはまったく等しい。パソコン上でも、エンターキーを一回押すだけで、それで改行コードが書かれるという、まったくもって文字そのものである。だから、改行というのはふつうの文字のように文章のなかに流れ込んでしかるべきであり、その流れも含めてこそのノンストップでスピーディなノリノリの文章だと僕は考える。もちろん、実際に改行しなくても「改行。」などと明記するだけでその機能ははたらくだろう。読み手に依存するということはある。しかしそれでも、見た目が違うのだ。ページを開いた瞬間ダーーーーと表示される文章には辟易せざるをえない。というわけで、表現のなかにある文字としての一貫性、また、読み手にとってのぱっと身の印象という点から、僕はふつうに改行を遣いたいと思う。逆に、ダーーーーーと表示されることで、おっ、とか、いい意味で、うわっ、とか思われることもあるかもしれないので、ダー書きの価値を否定するものではないと補足しておく。それではもうひとつの点について、書き流しが不可ということ。いわゆる脳の垂れ流し、そういうふうに文章を書くことについて。実際のところ、勢いで書いた文章と、しっかりと練られた文章の、どちらが読み手にとっておもしろいかということは、判断するのが難しい。現実、意外な方向、つまり思っているのとは逆、もっといくと、報われない努力のほうが経験上多いように思える。しかしだからといって意図的な工夫のない文章はだからすばらしいのか。自分からみるとどうみてもよみにくい。書いたあとで書き直すことはできる。よってとりあえず書けばいい。