書くためのとしてのテキストプレイ

もうちょっと夢を思い出せたのでついでに書きつつ、もう見出しを決めて書き手の側から適すとプレイというか、あくまでこの10分書きから想定できる推測の範囲で、そういうことを考えようと思う。
夢の続きだか、なんだか大きい店にいた。家電量販店のようなところだった。トイレを探していた。なんだかトイレが商品と溶け込んでいて、どこかよくわからなかった。あとは、高校のクラスメートがなんか話していた。秋葉原のひとに名所案内を頼もうとかなんとか、なんてよくわからないことをおっしゃるんだ、と僕は思った。
夢はその程度、では次。書き手にとってのこのようなてきとうな書き方はどういう意味をもつか。まず思ったことなのだが、10分くらいなら、だが、ああ、書けるものだな、と思った。もちろん、書けないやばいまずいって思うことはあるのだけれど、そこは見たものとかを書いたりして、これはふつうの文章だとあり得ないのだけれど、話題もばろぼろ変わるし、まあ文章を書く手段としてはドウかと思うけれど、それでもそれなりに書けるし、なにより10分程度だと、ちょうど書くことが出てくるあたりで書き終わりそうになるので、ロスタイムをもうけたくなったり、スパートがかかったりで、微妙な意味で引き締まった文章が書けるような気がする。
こういう書き方もあるのだな、ということに気づいて、これはあきらかに心理衛生的には好ましいことだと思う。これは僕の考える速読の価値に通じるものがある。速読とは手段や技術ではなく、視点や価値観だと思っている。もちろん、本当に速読のできるひとにとってはそんなことはないのだろうが。つまり、速読とは、速読みたいな本の読み方もあるのだな、という視点の提供だと思っているのだ。具体的にいうと、自分が思っているよりも速い速度で本を読んでみてもいい、読み落としがあってもいい、視線の使い方というものがある、視野の広さとか、そういうものに影響される、サッカードというやつで、ひとは目を留めているときに文字を読み取るのだ、とか、まあ後半はちょっとずれてるんだけど、そういうことを知ったとき、僕は、本はてきとうに読んでもいいものだったんだ、と気づいた。そんなことは自然に気づくことかもしれないが、本に深く親しんでいるひとにとっては、暗い足下かもしれないこともあるかもしれない。
というわけで、こういう書き方もまた視点の会得なのである。このような書き方を続けることは好ましくないし、一方でどこかしらに価値を感じる。うまく料理して、自分のやり方にくわえ込む事が必要である。速読と同じである。世間一般、テレビでパフォーマンスするひとがやるところの「いわゆる速読」を身につける必要はないが、その技術の背景にあるもの、視点は、自分のやり方に活かすことができる。そのオプションを知りつつも、なおこだわりをもって否定することだってできる。
具体的にどういう書き方をこれから目指していこうかという話だが、いっぺんに変えることはできないので、やはりこういう乱雑な書き方の、いい部分、わるい部分を分析することで、まずはこちらのほうからあちらのほうへ向かってみる、というのが無難である。具体的にはこのまえ書いたような、改行にまつわること、また、上の文章で試した太字の強調など、また書き直しが許される範囲、時間の設定の仕方、ロスタイムの有無など、
(ロスタイム)ちなみに太字は書き終わった後に編集している。あとは推敲の仕方。明らかな誤字脱字は修正して然るべきである。
また、明らかにこなれていない文体を修正すべきか、というのは問題だ。直した時点で、それはべつの文章になってしまうと信じるからだ。オリジナルは残しつつ、より洗練された何かを精製することは、建設的な日記ライフにおいて非常に重要である