意図と結果の有向性

意図そのものを書いた時点でなんとなく負けた気がする。書かれた意図そのものはもはや意図ではない気がする。それを書いた意図は、と問えば、その意図が意図ではないことに気づく。
本を読むのは苦手だ。しかしたまに心地いい。ぐっと視界が狭くなって、鼓動がやや重苦しくなって、けっして潤滑ではなく、後戻りと先走りが両立するような感覚、連想がかろうじて道草に至らない綱渡りのように、集中とも散漫ともいえる慌ただしい思索が駆けめぐる。
眼前が文章であること。すべてがつながっているはずもない。自分がつなげている。あるいは逸らしている。完璧な連鎖なんてありえない。でもひとかたまりで。絡まった糸くずの結び目を一箇所も動かさないようにゆっくりと引っ張り上げるように。
明確に言葉がつながるときがあり、心象のつながりに言葉のはまらないもどかしさ。思考はどこから出発するのか。
意図にかする言葉によって足下を見失いそうになる。解説へと踏み外してはいけない。あとで言葉を探している。そうでないとき、その逆はない。始まりだけがある。絵でなく音になる。ただの音。
ちょっと「ぐっとしたもの」なんかが伝わる期待。
わだちを残すことは通っていない道に対するその結果そのもの。それはもう自身ではない。書かれたことは、いま書いていることではない。だから、書かれたことに対して、わたしはそれを書いている、ということはできない。ただわたしは書いている。結果は前にしか生じない。