ことばのおくりものを。

何かを得るにはひとからもらうしかない。ひとからもらったものはべつにひとにお返しする。ことばはそれ自体が価値なので、ことばにはことばでお返しするしかない。ほしいなら、与えないといけない。だから……。なんとなくひとつひとつのことはわかる。ぼんやりと絡まって、切なくて温かいきもちになった。
「ありがとう」ということばのない民族について中学校の国語で読んだことがある。そのありさまを「やさしい」なんていう言葉で表すことは適わないだろう。なるほど文化なんてあまりに違うものだと思う。それ自体が衝撃的な発見なのに、しかしさらに文化に基本構造が見出せるという。
しょせん進歩なんて評価できないのね。構造主義って「あ、ボクあくまでひとつの考え方っスから!」っていう謙虚な頑固さを印象に受ける。こう、非常に厄介な。
さて、どうやらモデルという概念も構造主義だ。コンピュータ自体が構造的な気もするけど、でもはじめからそうでもなくって、構造化定理とかって基本的な型をつくって、いまはオブジェクトとかより高度っぽい構造を用いて開発の手法が進歩(謎)している。これをことさらに「構造主義的だ!」なんて指差すことは意味がなく「わたしは人間だ!」と世界の中心で叫ぶようなものだろう。
ポスト構造主義は、構造主義は終わった(笑)じゃなくて、構造主義が当たり前になって、さあどうしよう、ということらしい。そう考えるといまの開発手法なんかがポスト構造主義そのものなんじゃないかと思ってみる。それも流行り廃れなのか? 情報系の学生としてはそう割り切るのもつらいものがある。でも、そのうちひょいっと印象指向プログラミングなんてものが爆発するかもしれない。つまりモデリングも流行りなんですね。いや、とてもそんなこと本気で思ってないんですけど。
モデル化することが人間のちからを最大限に引き出せる保証はない。合理性という概念がいかに合理的かを説明することばはない。でも何を頼りにすればいいの。本当の正しさを疑う前に、正しさを疑う。流行に漂う僕の出来上がり。
よくわかりませんが、切なくて温かいきもちにしてくれた(内田先生の説く)構造主義に抗うつもりも起きませんね。

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

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