ふいっち

からだとこころが一致しないなんていうのも比ゆ的なもんでこころを表す言葉はだいたいがからだの動きをひ喩したものですし土台となる対立自体が主観のごく一側面を捉えた解しゃくに過ぎないことから前提において矛盾であると問題視するのはもはや自己解決とよぶにふさわしいです。
対立は2次元なイメージがあります。平面の表と裏をみたときです。しかしx軸y軸という意味でも2次元です。しかしそれが平面ということです。しかしx=0であるときまたはy=0であるとき不正であるとみなされます。平面といっても、べつものを考えます。だいたいは軸の上に座ることなどできず、裏表じゃなくって、ふたつの次元があるという意味で2次元というのすら、またある単純なかい釈のひとつとして気づきます。
特徴を引き出すという方法をとることで対立に向けられる問題としての視線はいくぶん穏やかになります。柔軟な次元でしょうか、それを次元とよぶことが不適切なことは承知しています。同じひもをひっぱったらアタリと同時にハズレであった。ひもは一本しかないのに。そういう稚拙なひゆでしか記すにあたわないことを申し訳なく思いますが、こころという比喩におけるある一面です。
観測という比ゆをこころに向けることの誤りはいかほどでしょうか。物質の観測を比ゆしたものがエネルギの観測であるという素朴か衒学かわからない疑問に答える必要はありません。なぜかもののことわりとされていますし、エネルギの観測をこころの観測に比ゆしたとき、しょうもないえせ科学と一蹴されます。
わたしのこころはふいっちします。しょうもないひゆのうえに成り立つしょうもないひゆがわたしのこころです。触れるとふいっちします。