知識と権威のすべてをオントロジーに還元する

長尾のブログ2.0: 権威を壊し、権威を創る

学問の世界を肌で感じているわけではないが、自然科学においてコミュニティの役割が重要であるとは聞く。仮説と検証をプレゼンし専門家の同意を得られるかどうかが、知識の正しさを保証する。科学的といっても、常識に近い知識を重ね合わせたもので、根本的な常識もまた「ほぼ正しいに違いない」という専門家の同意でしか成り立たない。
知識の正しさがコミュニティに支えられるなら、大衆的なランキングと専門家の権威も、本質的な違いはないかもしれない。論文の引用数などによるインパクトが専門家の情報収集に影響を与えているのも間違いない。仮に同じ内容を述べた二つの論文でも、著者の名前によって扱いに大きな差が出る。専門家による洗練を経て得るものこそ権威であり、その結果として属人的に得られるステータスからは区別すべきに思う。
知識はコミュニティと面して価値を計られるものであり、著者はコミュニティの一員というほどの意味しかない。かといって、ステータスとしての権威が成り立たないとき、学問の進展に関わる動機づけを失わずにいられるかというのも問題だ。ランキングのような非合理性に左右されず、かつ研究者の意欲を失わずにいられる仕組みにはどのようなものが考えられるだろうか。
さて、コミュニティがかなり正しそうな知識(=権威ということでよいだろうか?)をオントロジーとして具現化することは有意義に違いない。オントロジーを「言葉および言葉と言葉の関係を詳細に定義したもの」(上リンク先)として捉えることは、哲学的にはともかく実用上はとくに問題ない。しかし本質的には言葉でなく存在または概念を対象にした体系であることには注意すべきだ(存在=概念かはさておき)。
工学的にはオントロジーを言葉の体系として構築することも有用かもしれない。しかし、ここで述べられるような領域ごとの意味の違いにまで着目するなら、言葉とは別のレベルにある概念にこそ注目することにほかならない。言葉A=意味Cかつ言葉B=意味Cであるなら、それを体系化するときに意味Cという存在そのものを認めないといけない。その存在は、単に言葉Aと言葉Bの関係において示されるものではない。言葉の関係だけでも実用的かもしれないが、それを「総合学術オントロジー」という規模まで拡張するなら、いざ具体化しようとしたとき、存在そのものに関わる哲学的な問題でつまづくのが必至だと思う(これは僕の勘)。
また、オントロジーは存在の体系でしかない。学問で扱う重要な問題である、因果関係や現象のプロセスや研究の手法といったものをオントロジーに還元できるか、いかに還元するか、というのも議論になる。これはそれぞれの学問が世界をどのようにみているか、またそれら世界観の違いをいかに統合するかという、極めて高度な哲学的問題である。さらにそれを工学的に実現できるかというネックもある。(もちろん哲学関係なしに、工学的に「総合学術オントロジー」つくれちゃいました、という可能性もなくはない)
つまり、オントロジーを特定の学問領域における世界観の具体化として用いるのは、存在として語り尽くせる知識の整理と、議論の土台としては有効である。もちろん内部においてすら議論はあるだろうか、それを解決できないようでは権威もへちまもない。それを超えたところ、素朴には存在として捉えられない対象領域のあらゆる知識をオントロジーとして構築すること、またはいくつかの世界観を融合させることについては、哲学的な問題が残される。仮に哲学的な解決が出たとして、ほかの学問がその理屈に従う道理もない。
以上、思い込みと勘まで。