知的好奇心をみくびるのはどこでだれだ

卒業研究の中間発表をみて思ったのだが、文系の卒業研究は動機づけの自由が大きいのだろうか。つまり、解決すべき問題を抽出し、しかるべき方法を検討する、という典型的なフォーマットに縛られない。もちろん、文系の卒業研究とひとくくりにするのは暴論だし、理系は逆である、なんてのも同様だ。そもそも理系と文系という(ry
自由な動機づけというと、問題の解決ではなく、疑問の解消、特徴の発見などを目的とするものである。もちろん、これらは問題解決と切り離せない。このような知的好奇心から研究を出発し、社会的にも価値がありますよーという理屈をコーティングして研究の趣旨とするのは正攻法だと思う。
はて、問題と疑問はどう違うのだろうか。未来像をえがけるかどうか。その問題が解決すると何がよくなるのか。疑問の解消はわたしが気持ちよくなるという利益がある。疑問を解消する一番らくな方法は教えてもらうことだ。この疑問は、わたしの知的好奇心から生じたものであり、この疑問の解消により社会のある部分が改善され、この疑問に対する解消の方法はだれからも与えられていない、というとき、これを問題といっても差し支えないと思う。でも、これがコーティングだよね。
疑問があるわけでもなく、もっと知りたいと思うこともある。あれとこれを比較したら特徴を発見できるのではないかという直観が探求心を引き起こす。問題がわからなくても探求心はあるし、探求はできる。研究または学問とは、問題から出発すべき、なのかもしれない。しかし、知的好奇心が問題から出発すべきであるというなら、幼い子どものなんと問題発見能力の優れたことか。
わたしは知りたいと叫ぶことで研究の目的を主張するのは勇気のいる挑戦だ。それでどうした、というコメントには、わたしの知的好奇心に高尚な価値が見出せる、という反論しかできまい。べつに文系の学部生は勇気があるというわけでもないだろう。
研究テーマをどうやって考えるか、ということを考えようと思ったのだけれど、なんだか違う話になった。またこんど。
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