作品の質と、作品の向こうの作者について

「洗練」されている作品と、「まとまり」のある作品は違う。「よくできている」という感想に必ずしも「好きだ」というきもちは伴わない。客観的に低い評価を下すことが容易である作品が、僕から好意的な印象を引き出す根拠は何か。そのような根拠は、個人または少人数によってつくられた作品にとくによく潜んでいるように感じる。よい意味で「身の丈にあっている」気がする。いくつかの表現のチャンネル(たとえば、文章、絵、音楽、演出、演技)が、無理なく、気取らず、かみ合っているのは、そういう作品だ。個々のチャンネルが高度に洗練されていても、それらの総体が優れた質を与えてくれるとは限らない。いびつとまではいわない、それこそ「よくできている」という判断は下せるのに、それよりも一見は拙くみえる作品に覚える、それ以上の「まとまり」は不思議だ。
作品に対する好感の大きさの、どのくらいが、作品の向こうにみえる作者に対する好感の大きさに依るだろうか。ここで作品の向こうの作者とは、僕のつくった幻影であって、その作品に対する作者自身による言及とはべつの人格である。評論をするとき、作者もまたユーザのひとりに陥ることからは免れない。ユーザでない作者をみるためには、作品のユーザである僕が幻影を生み出すほかはない。そこで「作品のまとまり」という質は、「作品の向こうの作者の一貫性」に依るという仮説を思いつく。
うまくうそをつくには、うそをつきとおす必要がある。うそをつきとおすには、僕がもっともよく理解している前提、すなわち現実とは、またことなる前提を仮定し、その仮定のもとでコミュニケーションをとらなければならない。つまり僕のよく知らない前提を扱う、ということは、僕にとって難しいコミュニケーションだ。これを一般に拡大して解釈するなら、うそをつかないとき、もっとも制御しやすい前提のもとで行動を一貫させやすい。
いいえ、うその意味をもっとぼやけさせよう。矛盾というほどでもない、葛藤をもまたうそとしてみよう。たとえば、やりたくない「のに」やる。この文脈において、前提を結果に結びつけるにはきもちに小細工が必要だ。きもちに小細工を労しながら一貫していられるひとは、それでもきっと「よくできている」結果を残す。それがうそをつかない作者による作品に匹敵することもありうる。そういう作者はプロフェッショナルであるが、しかしプロフェッショナルの要件ではないと思う。うそをつかない道を進むプロもいると思う。うその深さは葛藤の深さだから、あるとないとで割り切れるものでもない。
ふたつの極論を出す。作者が楽しんでつくれば、楽しい作品ができる。楽しんでつくるだけでは楽しい作品ができないから、プロがいる。
作品の人気が高いとはどういうことか。作品への感想、作品への評価は、ユーザの思いをうんと縮減して集約される。質が量に封じ込められる。そもそもに、作品への思いを明瞭に言語化できるユーザがどれほどいるのかという問題もある。一番に単純化してしまえば、作品の人気というのは、ユーザのどの割合が「おもしろかった」と思い、どの割合が「おもしろくなかった」と思ったかで理解される。あるいは「どのくらいおもしろかったか」を分割する。その分布は「広く評価されている」か「好き嫌いの分かれる」作品かの違いくらいは教えてくれる。
これは僕の思い込みだけれど、そのような方法で高く評価されていると判断できる作品は、たいがいにおいて「よくできている」と思う。しかしその評価は、僕が「どのくらいおもしろかったか」と思うことに、あまり関係していない。「おもしろい」の閾値を超えたユーザの割合の高さは、僕がその閾値を「どのくらい」飛び抜けて感じるかには、ほとんど関係ないと思う。
「好き嫌いの分かれる」作品は、それでも結局は「よくできている」作品に過ぎないと思う。分かれたユーザのうちの相当数は、その作品の好きなユーザであり、そうでない場合、客観的な評価は低いと判断できるからだ。要するに、このような評価基準は、僕が「その作品が好きな少数派のユーザ」になれる作品を探すときに役に立たない。同時に、僕が「とくに好き」な作品を探すこともできない。「とくに好き」な作品は、その作品がどれだけ「よくできているか」には関係しないからだ。
かといって、実は「よくできている」作品のなかから探すほうが、「とくに好き」な作品は発見しやすいかもしれない。しかし、これを検証するほどの情熱をもてる分野が僕にあるかという疑問が浮かぶ。だから、頼ってしまう。
ところで、作者が楽しんでつくることがその作品の本質であると感じる場合がある。作品を静的にみることよりも、作品をつくるという作者の活動を動的にみることを重視すると、そういうきもちになる。もちろん、その作者というのは僕による幻影である「作品の向こうの作者」であって、現実に作者が楽しんでいるかどうかを確かめることはかなわない。僕は「作品の向こうの作者の楽しみ」を楽しむユーザでいられればよいのだ。