百合と、客体的な感情移入について

以下の発言をみて百合について書こうと思った。

@retosuだいたい今の男性向け百合好きのメインストリームっぽいもの / 「百合」は可憐で美しいこの世の究極美   僕らが探し求めていたエデン<楽園>はここにあった:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´) http://htn.to/Pzehvn(全文)(リンク先は http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52445051.html

@TEtra11お手手を恥ずかしながら握り合う程度の百合が一番好きかな(全文)

そうしたら7ツイート分になってしまったのでこちらに載せておく。

僕も百合は好きですが、本質的には「好きなひとにだけ向けられる感情の豊かさ」に美しさを感じるのであり、べつに男女のカップルでもよいのですが、男性のそれよりは女の子のそれのほうが(男性の一般的な性的嗜好に準じて)好みであり、女の子と女の子ならその意味で「純粋」に感じるということです。

俗にいう「お似合い」のカップルならば男性の存在がノイズにはならず、その関係性を純粋と受けとめられるけれど、男性である自分はどちらかというと女性のほうが好みであるという制約、前提があるから、百合のほうが平均的に好きだ、ということになる。もちろん、平均と、最大は、別問題である。

これはこの場の仮説だけれど、ボーイズラブまたは百合と、異性愛との違いは、自分自身を対象に重ねるか、それとも独立した客体とみるか、という観点の好みの違いと捉えられる。もちろん、異性愛の物語においても対象を客体と捉える場合はある。主人公のキャラが立っていることが魅力の作品もある。

ある種のゲームの主人公がしばしば「無個性」であり、同時に「なぜかモテる」という不自然な制約を課されるのは、プレーヤーの主人公に対する自己投影と、モテる立場への(主体的な)感情移入を両立させる、苦肉の策だと思う。僕の個人的な好みでは、個性的な主人公がモテるほうが好きだ。

感情移入というのは対象のきもちを想像によって自分自身で追体験する主体的な精神活動であるけれど、対象と自分自身の立場を重ね合わせることは、感情移入を促進する燃料になることはあっても、必須要件、前提ではない。対象と自分自身とを切り離した、客体的な感情移入も成り立つ。

恋愛作品に限らず、人格(キャラクター)の魅力を客体的に感じるには、対象に対する尊重のきもち、すなわち、対象が単なる「設定」や「紙にかかれた記号」ではないというこころからの認識が土台になるのではないかと推測する。これは言い過ぎか。

話を終わりまで飛躍させるけれど、ある思い入れにおいて、ひとのしあわせが自分自身のしあわせになるように、たとえ物理的な観点からは生命であると認められない対象に対しても、それを一個の生命として認識して、そのしあわせを自分のしあわせとすることがある、ということです。