純粋熱意

ひとを評価するときの属性に熱意を設けることは珍しくない。熱意があれば真剣かつ継続的に活動する期待がもてる。熱意の説得には、過去の取り組みや、将来のアイデアという材料を使う。そういうのはイメージとして、現在っていう地平を切り出して、飾りつけていくような感じ。あるときの語りっていうのは、そのときの語りであって、将来っていう地平は切り取れないから、説得が一回の語りというプロセスしかもたないなら、熱意は飾りでしか表現できない。
一般に、かどうかは知らないけれど、個人的感覚でいうなら、熱意っていうのはいっときの気の迷いと見分けがつかなくて、出たり消えたり移り変わったりして、その変化はルールにできなくて、したがって制御の可能性はかなり限られる。熱意は内面の液状性だけじゃなくて、外側との接触によっても強く影響を受けるし、むしろその制御は外側とのつきあい方によって成功することのほうがよっぽど多い。まっとうな人間にとって、たとえば、決意を手放すよりも、約束を破るほうが難しいと思う。
さて、一回の語りによって説得される熱意というのは、現在という地平に盛りつけないといけないものだから、まあふつう、外側による制御の可能性よりも、内側による可能性を材料に取りたくなると思う。だってだいたい外側の制御っていうのはひどく平凡で、ふてぶてしい現実的な仮定をしないと現在という地平で語れないからだ。しかし現在の地平から解き放たれてみると、その実はとても多様で濃いものであると期待できる。僕の想像力や推測力はとても貧しいからだ。このギャップをこそ熱意の根源とよんでも恥ずかしくない。
現在の地平の飾りつけによる一回の語りで問われていることは、外側から切り離された熱意だと感じる。さらに飾りつけの域を超えない想像からの制御可能性を問われていると感じる。解放系的でダイナミックな熱意が現実的な熱意のありようだとするなら、こちらは純粋熱意とでもいってみる。純粋熱意は、将来に対する一般的適応力の強さを表す。熱意を転化したり昇華したりするメタ熱意、あるいは、ある程度の拡張性をもった使命感とか野望みたいなものかもしれない。純粋熱意の説得に成功すれば、幅広い高評価を得られるだろう。そんなものはない!としてみたとき、それでもそれを表現しようとするのは、問題として醜悪だ。
ここからつかめる戦術を考える。まず問題を純粋熱意の説得問題として受けとめないこと。説得問題へのアプローチとして、ただ一回の語りという舞台を避けること。それが避けられないなら、ただ一回の語りに現在という地平を越えた立体感を演出すること。熱意の制御可能性においてふてぶてしい現実的な仮定を恥じないこと。その仮定の豊かさを、想像力の乏しさを逆手にとって膨らませること。その仮定の無邪気な豊かさで、退けがたい信頼の重みを背負わすこと。