抽象化と発想が関係する風景を思い浮かべていなかった

きっかけ:抽象的≒客観的、なはずがない

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』を読みはじめたとき、言葉がぜんぜんはいってこなかった。森博嗣は「抽象」という言葉に「客観」を結びつける。「具体」には「主観」と「論理」を。僕は逆に「抽象」に「主観」と「論理」を、「具体」に「客観」を結びつけたがる。だから森の言葉遣いが素っ頓狂に感じてしまう。

気づき:ゆるい抽象化は発想に欠かせない

読んでいくとちょっと違和感が下がっていく。森は「抽象」から「発想」を引っぱっている。なるほど。それは「論理」の反対だ。「具体」はその燃料だ。(「主観」と「客観」の問題は、この日記では保留する。)
なぜ僕は「抽象」から「論理」を引っぱるのか。僕は「抽象的関係」すなわち「一般と特殊の関係」を論理的関係と捉えるからだ。「○○は××の一種である」という関係。これは辞書的・分析的・論理的な関係だと思う。
そういう論理的な抽象化は抽象化の一部にすぎない、と感じることができる。たとえば「まとめる」とか「名前をつける」というのは「抽象化」の友達だと思う。「まとめる」とか「名前をつける」ときは悩む。辞書を開いても処理することができない。発想だ。

連想:なぜ連想ができてしまうのか

「発想」の友達に「連想」がいる。妹に「比喩」もいた気がする。抽象的関係は、矢印で結ぶことができる。あっちに向かっていくぞ、という計画性を感じる。けれど連想的関係を結ぶ線に向きはない。線が伸びるのではない。気づいたら出ている。
ある関係がただのデタラメでない根拠のことを命とよぼう。命とは関係するヤツとヤツの共通点である。抽象的関係にはちょっと命を感じる。連想的関係はそれよりも薄弱に感じる。「さっきアレを思いついた。ところで、いまコレを思いついた」とき、アレとコレは命ある連想的関係だろうか。わからないといってのけよう。命がみつかったら命があるし、命がみつからなくても命がないと断言できない。
神秘的に考えてみる。連想は命の暗黙的なプレゼントに基づく。思索によって命を開くことができる。
意図的に連想する、という場面がある。似たようなものを思い出そう。この結果はまだプレゼントだ。では、コレと同じかたちのものを、同じ機能のものを思い出そう。これはプレゼントの先取りだろうか。意地汚くなるほど、発想的関係は論理的関係になっていく。