その他大勢のわれわれ

アイドルのお話で、アイドルの姿をみてアイドルを目指す女の子は主人公の典型だと思う。主人公は成長して、その姿をみてアイドルを目指す女の子がまたあたらしく生まれる、という展開も典型だと思う。目指すひとが、目指されるひとになり、それが繰り返される。ゆめが再生産されるアイドルのお話。
アイドル(芸能;娯楽)にゆめ(希望;元気)をもらうというのはふつうのことだ。そのなかで、アイドルをみてアイドルになるゆめをもつことは、直接的でありながらごく限られた事態に思う(「女の子」にはそうでもなかったりするのだろうか)。
アニメ「アイカツ!」では、主人公の弟がアイドルに興味をもっていて、ライブの前日に興奮して寝ようとしなかった。姉(主人公)はただのつきそいでライブに参加するが、そこでのアイドルの姿に感化され、その日帰ってから眠れなくなってしまう。前日に眠れなかった弟と、その日に眠れなかった主人公という対比が、二つの異なる「アイドルからゆめをもらう」事態を境界づけていると思った。
アイドルを好きなほとんどのひとは「前日に眠れない」ひとたちだと思う。「その日に眠れない」ひとはなんだか特別に感じてしまう。
アニメ「プリティーリズム・オーロラドリーム」の終盤は劇的だった。主人公の姿に無数の「その日に眠れない」女の子が生まれただろう。この主人公はアイドルとしての野心みたいなものがあまりなくて、一貫して周りのひとたちを救いを与える姿勢が興味深い。ゆめの再生産というより、純粋にゆめを生む存在にみえて、常人離れしているけれど、そこが魅力だ。
では、「その日に眠れない」ひとたちのお話をみている、「前日に眠れない」(ことすらないかもしれない)僕とはなんのか。言い換えれば、アイドルのお話に登場するファンたちはモブ(その他大勢)であってなんでもない、のか。
ひとの輝かしい姿をみて、何かしらのよい方向の力をもらったとして、それがアレだからコレよりも偉い、みたいなことは考えたくない。アイドルをみてアイドルを目指す姿は劇的だけれど、カメラがそこを映すから劇的なのだ。
アニメ「AKB0048」の世界では、「輝き」は酷なほどに可視化されている。アイドルとしての輝きが物理的なのだ。その他大勢のひとたちは物理的に輝かない。けれどじつはそうではない、という発見をこの作品は暗示する。輝きは、ないのではない。たとえ名前を知られていなくても。