葛藤

しがらみが複雑な問題を「葛藤」と捉えている。しがらみとは「ああすればこうなる」という事情であり、それが複雑であるというのは「あちらを立てればこちらが立たず」という事情関係がいくつか成り立っていること。
葛藤に解決を試みることで、葛藤は消えるかもしれないが、尊重したしがらみの裏側に副問題が現れるかもしれない。だから葛藤の解決には「切り捨て」や「諦め」のような妥協が求められる。あるいはすべてのしがらみを解決するような冴えたやり方を望む。
政治家のひとが、葛藤のない問題はビジネスや科学でやられているのであって、政治はそこでやれない難しい問題をやることであるとわかってほしい、というようなことをいっていた。葛藤と、葛藤でない問題には、なるほど違う感じがある。解決と副問題が絡み合っているというしがらみがそこにある。
ゆえに葛藤について「はやく解決しろよ」というのは無茶だ。言うなら、それは葛藤の風情をわかっていない。
ところでアニメ。問題解決に注目してアニメをみることがある。物語の構造を問題解決の構造に変換する遊び。テレビアニメには1話という区切りがある。物語の構造が話(ワ)の制約を受けることがある。僕は「続きが気になる」ワよりも「いやあ、今週もおもしろかった」ワのほうが好きだ。ときにはその両方を同時に感じるワもあって、そういう構成を僕は巧いと感じる。しかし物語をワに収めようとすると、物語が形式化・単純化されて、単純な問題解決をえがきがちになるかもしれない。
ではワのなかで葛藤をえがくにはどうすればよいか。解決しない、だ。そのワでは。そのさまは「うやむや」とか「ごまかし」とか「お茶を濁す」と言われる。それは非難ではない。これらの言葉には葛藤の風情が宿っている。解決しないという道こそ、葛藤の解決を目指す真摯な姿勢にほかならない。
というようなことを「おれいも」第1期で思った(俺妹アニメ第1期をみていたときの考察メモ - kiwofusiの作業ログ)。
アニマス」でも思った。一人のキャラの葛藤が何度もワをまたいで深められ、果たして解決に至る構成には、制作者の勇気を感じる。
残された葛藤は、緊張を与える。その後のワには、緊張しながら、っていう、読み方が現れる。