部活システム

なんかやってるやつっていうのはだいたいなんでやってるのかわかってないと思う。すくなくとも、わかりながらやっている、ということはないと思う。努力をビジョンでラッピングするのは単に弁論術だと思う。

TOKYO DOME〜1830mの夢〜徹底討論!完全版 / AKB48[公式] - YouTube(38:03ごろからの流れで)

宇野常寛「部活って、みんながプロ野球選手になりたいわけでもなければプロサッカー選手になりたいわけじゃないじゃないですか。ほとんどの人間はふつうに進学したりとかふつうに就職したりするんですよ。でも彼ら彼女らはすごく一生懸命部活をやって、そこで本気で泣いたり本気で傷ついたりするわけですよね。

AKBってそれなんですよね。みんな「歌手になりたい」「モデルになりたい」「女優になりたい」って別の要因があるんですよ。でも、その夢のための道具として利用してやるっていう計算高いことでやるんじゃなくて、あの独特のシステムにいると全力投球してしまうんですよね。」

何かをやるときに目的意識は大事だという戒めをよく聞く。他方で、非合目的的にすごいことをやっているやつらがいる。だったら、すごいことをやる燃料として目的意識は本質でない。だいたいひとの「できる」は意識と相性がわるい。目的意識の役割というのは、やっているさなかの外、やり始めるときとか、やりやめたすきまにおいて発揮されるものではないかと思う。
じゃあやっているさなかを盛り上げる燃料はなんなのか。それという衝動を思い出すことはできる。しかし衝動という言葉の仮定には納得がいかない。香りが合わない。悔しさ、楽しさ、端から端までそれっぽい言葉が浮かぶ。それらが混ざり合っているなんか。それがなんなのかというのはたとえば、「楽しい」と「気楽」は違うということだ。

森末慎二・菊田洋之『ガンバ!Fly high』第21巻(p.94)

平成学園の体操は、「気楽な体操」じゃありません!!

どんな厳しい練習でも、自分から積極的にやろう! 上達することを楽しもうっていう、「楽しい体操」です!!

熱意を伴った「楽しい」は、はっきりいって楽しくないと思う。外からみれば。「なんか大変やなあ」ほどのもんで、どっちかというと楽しくない、はっきしいって。なのにそれを「楽しい」とよぶひとがいるのだ。そのひとは、それが楽しくないという本当のことを知らないからだ。それと「本当の」という言い回しはじつにあほらしい。
非合目的的ながんばりのネットワークを連結させるエンジンと燃料は何か。それは意識ではない。意識はその反対だ。
しかしネットワークが崩壊したら、ふたたび意識に頼るしかない。しかしそれでもなお、意識によってネットワークの復活を意図することは無謀だ。たまたまどこかで意識が崩壊することを期待するしかなく、かつそれを意図することを期待してはいけない。
こういうふうに考えると、「やってみる」ということの価値を感じる。それは意識につばを吐きかけることだ。過激なもんだ。「やってみろ」というアドバイスは世間に溢れている。「くそが」と思う。しかしそこには重要な意味があったんだ。それは、いまいるネットワークの檻から抜け出して、新しいネットワークの檻に籠もっていくという意味だ。
異なるネットワークの檻は、機能も違うし情緒も違う。では自分とは、これらの檻から檻へと自在に散歩できるのだろうか。意識という檻を、ほかの動物(それは自分以外の人間をも含むかもしれない動物)から区別し特権を与えるならば、それを可能に仕向けるかもしれないという点に依るのではないか。そんなんは傲慢だ、かな。