人文知は幸せなのか?

いきなり長めに引用する。

千葉徳爾民俗学方法論の諸問題』(千葉徳爾著作選集)p.32-34

柳田國男という人が一生をかけて問い続けたのは、布川の少年時代に生まれた「農民は何ゆえに貧しいか」という問題でありました。

経済的に貧乏なだけではない。(中略)知識においても貧しい、文化生活全体が豊かでない。(中略)

例えば、普段は金や物を貰っておいてその義理があるからといって、選挙の時には公の仕事に携わるには好ましくない人にでも投票しなければならん。(中略)成人式から結婚式、葬式に至るまで不必要な費用と時間とを使って見栄を張る、(中略)仲間から笑われるから、恥ずかしいから、他の人がやっていることだからということで愚かなことを守り続けている(中略)

これらが愚かなことだということがわかるのが、知識というものを本当に自分のものにしたことになるのではないか、それをいったい何故やめることができないのだろうか、自分達の周りについて実際に研究してみることが、つまり郷土の土地を限って調べてみるということであります。

そうして、その本当の理由が解りますと、そういうことを改めて、もっと明るく楽しく社会生活が送れるのでなかろうか。昭和二十二年に、柳田先生が「民俗学は世の中の役に立つような現代の科学にならなくてはいけない、昔の古いことの詮索から足を洗わなくてはならない」ということを強調したのはそのためであります。

人文知なるものがあったとして、それがなんなのかというのはわからんけど、イメージとしては人間が悩んでいる姿があって、暗い、感じがする。ひとを人文知にかりたてる動機は、たいてい暗いのではないか。だから「明るく楽しく」という文体にはびっくりした。しかし暗い動機と明るい志は矛盾しない。ここに意志を感じる。それでもやっぱり、人文知はもっと鬱蒼としているのではないかという妙な期待も捨てきれない。では人文知と幸せについて散歩してみる。
僕の思い込みとして、人文知は暗さを包括している。ゆえに「人文知を得、そして幸せを得る」というモデルからは「暗さを得、そして幸せを得る」という奇妙を感じる。人文知なきセンスを演じてみる→暗さは不幸せだ、ゆえに人文知は不幸せだ。逆に、これを批判するのが人文知のセンスではないか。人文知以前の幸せと、人文知以後の幸せは異なる。つまり人文知のはたらきは、幸せの獲得ではなく、幸せ概念の更新ではないか。
「人文知は暗さを包括している」という思い込みを考える。楽観的なモデル→「人文知によって問題がわかる。だから問題を解決できる。そして幸せになる」。しかし問題にはしがらみがある(葛藤 - 反言子)。だから、問題がわかる〈のに〉問題を解決できないことがある。たいていしがらみというのはものごとを深く知るほど明らかになる。つまり「問題(の難しさ)がわかる」であって、知れば知るほどわからないってことでは。この経験則は人文知に限らない。
人文知は世の暗がりを教える。たとえば不条理を。そこで「不条理を味わう視点をもて」という説教がありうる(中島義道『働くことがイヤな人のための本』)。それは不幸せなのでは、というセンスがうずく。しかし「不条理を許せない」という厄介者は人文知の顧客であって、「不条理を味わう視点を許せない」というひねくれがまさに、不条理を味わっているさなかではないか。不条理を許せない者はその信念ゆえに不条理を味わってしまっていて、不幸せを嘆くがゆえに、人文知という望みを達成している。ここに不幸せを包括する幸せがある。
人文知は、そのコンセプトデザイン(たとえば問題解決という目的の設定)に先立って、それを考えずにはいられないという厄介者の事情があるように思う。そのとき人文知とは怪我を防ぐグローブとかサンドバッグなんじゃないかと。
大塚英志『大学論』がきっかけで冒頭に引用した本を読んでいる。大塚は大学でまんがの方法を教え、学生の姿を見守りながらこう考える。表現とは自分のなかの「抑えがたいもの」に向き合い、苦しみながらも果たしてそれを制御し自律することによって完成する。この苦しみは「自分を知ることによる動揺」であり、人文知ならではの不条理/味わいだろう。
理工学からは、自分を知ることによる動揺を想像しにくい。科学とはIからItへの逃避だという妙言も聞く。理工学は制度化が進んでいて一定の価値尺度を共有しがちだから、価値尺度の自己批判から免れやすい。しかし理工学においても、劇的な発見は拒絶反応を引き起こす。ゲーデルアインシュタインのそういう逸話を聞く。風呂入ったらなんかひらめいたラッキー、なんていう話ではないのだろう。それは彼らが大天才だから、なのだろうか。それともまんがを学ぶ大学生におけるように、免れえない学問の特質なのだろうか。
哲学はなんの役に立つのか。ある哲学者は、未知に混乱しないで済む、と答える(山脇直司(前東大教授)×鈴木寛 すずスタ!コラボトーク - ニコニコ生放送)。人文知を「自分を知ることによる動揺」との戦いとするなら、その効能は未知の先取りではないかと思う。未知は未知なのだから、それがいざ起こるまではみえることがない。しかし探すことはできる。一番探しやすい未知、それが自分自身なんじゃないか。自分のことは自分が一番わかっているという思い込みが人文知以前にはある。だからこそ自分自身というのは過激な未知を演出する。
制度のなかで努力し成果を積み重ねた人間は自信をもつ。この自信は人文知の反対側にある。『フリーター、家を買う。』という小説でこういう場面がある。主人公の母親が鬱病に苦しんでいる現実を、主人公の父親は実直に認めようとしない。それは新しいことが怖いからだ、と主人公のバイト先のおっさんは看破する。エリートとして努力し評価されてきた父親だからこそ、その年になってわからないことに出会うのが怖いのだと。おっさんはみずからを学がないからと謙遜するが、僕には人文知の伝道者に映った。
人文知には「わからない」を練習する側面があると思う。もちろん、なんの学問でもそうだ。でも「科学法則がわからない」に比べると、人文知がわからない、人間のことが、自分のことがわからない、というのは動揺が大きいように思う。
ところで逆に、手段を問わず「わかる」をむしり取る思索の徹底をも人文知には感じる。結局のところあるのは、わかるを包括するわからない、あるいはわからないを内包するわかるなんだろうかとか思う。
で人文知は幸せなのか、っていう日本語として怪しい問いなのだけれど、こんだけ考えてもなお、感覚と思い込みで、いや、幸せじゃないだろ、みたいに人文知をぽい捨てしたくなる。これはどういうことかというと、僕の「幸せ」は人文知によって更新されていないんだろう。幸せと「幸せ」が一致しているのは安全だ。人文知の効能は、幸せと「幸せ」のずれを手入れすることなんじゃないかと思う。

千葉徳爾著作選集

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大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

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フリーター、家を買う。 (幻冬舎文庫)

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