気分の重心

18切符を期限ぎりぎりまで余らせていて、明日は使おう、明日は使おうと、お出かけの計画を立てて遊んでいた。主な目的意識は、お得をすることだった。片道4時間ほどのところへ日帰りでいくとこんなにお得だ。ここには無料の施設がこれだけある。ここに行きたいが2400円は高いなあ。出かけないと一番出費がすくない。けど切符代はもう払ってある。すぐに売るという決断はすぐにできない。安いというお得と、何もしないというお得との天秤。日ごろ、安く買うという節約と、買わないという節約の違いはなんだろうと考えたりする。なんか質的な違いがあるような気も、量的な違いにすぎないような気もして、感覚ではよくわからない。朝、目を覚ます。無休の惰性が頭を押さえる。利害の計算が一瞬起こって、利害の理は逆に緊張を呼び惰性に還る。「やってみれば案外」という言い回しも浮かぶが「そう言われればそうだな」と思える根拠に乏しい。経験的判断における根拠の押し合いは時間的な重みづけが強くて、強い重みの押し合い、つまりはさいきんの流れのなかで勝ち越しが決まるように思う。このたびはそちらの流れだった。ゆえに「やらない後悔」は取るに足らない。期限が切れ、目を覚まし、惰性は寝ぼけていて、誤って近所のスーパーに出かけた。たかがからだの声に耳を傾けるなら、僕のお得はそちらにあった。でもこの記述は極端な物語であって、これを誇張し、「僕は本当は大げさに出かけたくなどない」し「僕は日ごろの小さな生活感にこそ豊かな味わいを感じる」などと強化記述すると、気分は自己強化を回し、気分の重心は低くなる。他方には「たまたま眠かった」とか「たまたまお菓子が安かった」という非物語があって、でもその「たまたま」論法もまた非物語を誇張する物語化の記述術であり、気分の重心は頭を飛び越えていくんじゃないかと思う。どんなときにも安らぎを望んでいるし、かといって機を失うのはさみしい。期待していたものが「最高」じゃなかったとしても、その微妙感の不安に負けて「じつは!たいしたことなかった」とか自己説得・誇張強化しなくていい。てきとうな気分の重心をみつけたい。なんとなく、へそよりも上のような気がする。