劇場公演の非非日常

AKB48およびAKB0048の近接性について「認知」の近接性と「空間」の近接性というのを考えたけれど(AKB0048の超越性と近接性/濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』を読んで - 反言子)、ほかに「時間」の近接性もあるのではないかと考えた。時間の近接性とは、それが特別な時間でないこと、いつもの時間であることによる近さ。時間の近接性は、ごく単純にその回数からもたらされる。繰り返しがあること。
AKB48の劇場公演には時間の近接性があり、AKB0048の強襲ライブには時間の近接性がない。たとえAKB48であっても「コンサート」(非「劇場」な非「公演」)には時間の近接性がない。
時間の近接性、その「近さ」感というのをふつうの言葉に砕くなら「また来よう」。「きょうはこうだった」。「次はこうかもしれない」。終わりがないこと、ゆえに生活の内側にあること、その近さが時間の近接性。
劇場公演の価値・効能は、そういう日常以上・非日常未満な時間感じゃないかと思った。この感を、できの悪いトートロジーで語るなら、自分は自分の生活の外側を生きてはいないということ。