学際研究=固有技術×探求学(川喜田二郎『発想法の科学』読書メモ)

「学際」の話を抜き出してみる。『学際研究』の内容も引きながら。

学際研究とは

学際研究は単一の専門分野で適切に扱うには広範すぎるもしくは複雑すぎるテーマを扱う。

p.523

「現代文明の壁となってゆく複雑難解な諸問題」、それに立ち向かうためにKJ法を育てようと私は提案してきた。

学際研究は複数の知見を統合することが必須の、「研究」(いまの知の大系ではわからないこと、できないことを可能にする)である。その態度を著者は「科学する」という言葉で語る。

p.528-529

一方では、科学とは大系づけられた知識の殿堂を指すことが多い。(中略)そこから必要に応じて知識を取りだし、ふりまわす。(中略)しかし他方では、未知の領域にわけ入り、そこから確実と思われる新知識を獲得し、既知の知識の殿堂につけ加えること、それが科学的探求だというわけだ。(中略)

ここでは便宜的に前者を「科学」と呼び、後者を「科学する」と呼ぼう。(中略)体系的知識の殿堂から必要な知識を取りだすのが目的ならば、「情報検索」の方法を発達させれば足りる。したがって、体系化された学問の諸部門に、わざわざ学際的総合などを企てるのは、屋上屋を架する、かなり不毛な努力なのだ。これに反し、科学する場合にこそ学際的な総合とか協力が、その名に値する生産性を発揮するのである。

「科学」と「科学する」の違いにはびっくりする。「科学教育」にもそういうギャップがあるように思う。「基礎」においては学生は「科学」を学ぶが、卒論を書くためには「科学し」なければならない。

学際への道:固有技術×探求学

学際性に対する安易で間違った考えを改めてもらうメッセージ。

p.528

「学際研究などというものは、言葉は美しいが、まずうまくいったためしはないね」、これが、多少はこのテーマに関わった人の実感である。たしかに現実はすこぶる難事であることを示している。それを百も承知のうえで私は断言しよう。「学際への道はあるのだ」と。

その道は「固有技術」と「探求学」(KJ法)の組み合わせである。

p.535

すべての問題解決には、(1)その道だけの専門の技術やスキルが必要であり、これを固有技術といおう。その反面、(2)どんな分野の問題解決にも通ずる一般的な問題解決方法論も必要であり、これを探求学といおう。これからの専門家は、固有技術と探求学とを右と左よろしく両手にもつべきである。

「探求学」(KJ法)にはできないことがあるし、ある一つの固有技術にも、できること、できないことがある。

p.523

私に高分子化学とか原子力技術の問題をKJ法で解けといわれても、それは無理で、しかも無駄な注文であろう。

だから現実問題を解決するには、自分(チーム)のもっている「固有技術」たちを「探求学」によって結びつけることが必要だ。

探求学のために:科学的人間学×場面転換

「プロジェクトマネジメント」とか「ファシリテーション」的な。

p.534-535

単に学際というムードに酔ったり、(中略)名人芸に頼っていては、お先まっくらである。

そのためには学際学が必要だと思うが、それには高度な学識経験者間の協力をいう前に、まず人間誰しもが、どのようにうまくチームワークをくめるかという基本に根ざしたものでないと、まったく失敗するだろう。スクラムを組むルールや技術こそ、学際学の基本だと信ずる。たとえば、すでに触れた会議のやり方にも、ちゃんとしたルールや技術が必要である。リーダーシップ、フォロワーシップについても、それらがある。

このように、学際をいう前に、まず科学的人間学ともいうべきものがあり得ることを承知し、それにもとづいた協力方法のノウハウを用意すべきなのである。

「画面転換」とか「協力のレベル」というのは、具体的で納得のいくアドバイスだった。

p.535

あるプロジェクトをめぐる学際協力では、そのプロジェクトの進行の段階や場面に応じて、ある段階では探求学の立場から、全員が同じ面上で共同作業をするのがよい。探求学はこうして、異専門の人びとの国際語なのである。しかし他の段階では、各人が固有技術を中心に分大して進めるのがよい。一見まことに平凡なことに見えるが、すくなくとも日本の現実では、こういう場面転換が必要なのだという共通理解が、たいてい見失われているのである。

また、学際協力といっても、いったい問題意識の共有のレベルでのみ協力するのか、データの共有のレベルでのみ協力するのか、それとも問題点の抽出のレベル、あるいは資金や旅行の便宜面でのみ協力するのか、といった問題がある。すなわち、協力作業の中身は、どのレベルでおこなうのかという申し合わせの確認が必要となる。これをしなかったため、お互いの思惑がくいちがい、もめた例もある。データを共有する場合には、共有技術の他に、他人のデータを使う際の礼儀のルールの問題もある。

感想

古い文章にもかかわらず『学際研究』に通じるところが多くて驚いた。こういう「あたりまえ」が進まないのはどういうことなんだろうという疑問。