好きになる順番が偶然

ある発見の作用因は偶然だと思う。たまたま目の前のその対象のその側面が映り、それをみたから、その発見に至った、という説明が無難ということ。
ある知っている対象についていままで気づいていなかった魅力ある側面を発見したとき、このプロセスを好きになるという。(このプロセスが認識域よりも狭く圧縮されると言葉が換わる。認識域をくぐり抜けたプロセスに「になる」という言葉は似合わない。)
僕はある「好きになる」の結果について、どうやって納得のいく物語を形成できるのか。逆から言うと、ある「好きになる」の作用因が偶然であったとき、その「偶然」から外れた無数の「好きになる」を失っているのではないか。(ところで、舞台に張りめぐらされた偶然の密度は、偶然からすくなくともひとつが選択される可能性を示す。あるとき偶然がデリバリーされる確率的必然性がありうる。「好きになる」の作用因は偶然的であるにもかかわらず、利害に基づく意図によって必然として欺かれているのではないか。)
「作用因が偶然」とはどういうことか。ふたつの偶然が思いつく。ある結果に至るあるできごとは、その結果に至らないことがある。ある結果に至るあるできごとは、起こらないことがある。この「起こらない」は、目の前で、の、すなわち「体験しない」とでも言い換える。「作用因が偶然」と言って素直に僕が捉えるのは、ある結果に至るあるできごとは、その結果に至らないことがある、のほう。しかし生活的な、ある結果に至るできごとは体験しないことがある、のは「発見機会が偶然」とでも。実際の「偶然」は両方の偶然が複合しているはず。言葉を換えれば「発見機会が偶然」だし、ある発見機会においてさえも「発見が偶然」である。
なぜ「発見が偶然」なのか。発見機会の体験を発見に結びつけるルール集合を世界観という。ある世界観に基づく発見は世界像を更新するし、世界像の見応えは世界観に逆流する。「発見が偶然」である簡単な理由は、仮に、世界観が偶然であること。たとえば世界観が乱数に頼っている場合。ほかの生活的観点として、世界観が変化すること。あるとき世界観と発見と世界像のあいだに必然があったとしても、発見機会が偶然であれば世界観は確定しない。世界観の実行と発見と世界像の更新は世界観の更新に作用するため、生活的に考えて同じ発見を繰り返すことはできない。これは偶然という感じがする。
ということは忘れて、日常的な言葉で飛躍的に考えてみると、好きになるが偶然であるというのは、生活的には好きになるきっかけを体験することは偶然であること。ではそれは好きになる対象が偶然であるとか、自分の世界観が偶然であるということなのかというと、認めたくない。偶然による傷は浅く済ませたい。だから何が偶然であるのかをもっと限定する。それは、好きになる順番が偶然であるのではないかと思う。順番が変われば世界観と世界像の枝分かれ先も変わっていくから、やはり世界観は偶然なのではないかとかなる。もし順番に一周という切れ目が見えるならその道筋がどのようであれ、世界観の地平線は似通うのではないかと思う。