ひとの言葉に名前をつける/『ちょいデキ』読書メモ

ちょいデキ! (文春新書)

ちょいデキ! (文春新書)

仕事がちょっと活きいきする、すぐ使いたくなるメソッドがいろいろ書いてあった。自分なりに「名前」をつけようと思う。
(これらのメソッドは発展させれば「パターン」になったり、その候補の「パトレット」(例:リアルイベント開催のためのパトレット)といえるものだと思うが、日ごろの言葉遣いの感覚から「メソッド」ということにした。ともかく考えたのはその「名前」です)

5分後の未来

これは新しく名前をつける余地があまりない。本では「五分後の自分をイメージする」(p.48)と書かれている。大きな目標を考えて達成するのは大変だが、5分後にどうなっていたいかを想像すればわくわくしてうまく動ける。実際にやってみると、すごい。

意味を閉じる/音で聞く

「(声を)音で聞く」と言うのがわかりやすいが、自分なりの言葉遣いとして「意味を閉じる」。意味の層にぱたんと蓋をするイメージ。
「解釈」による「思い込み」で悩むのは悲しい。「事実」を素直に受けとめるには「五感で捉える」(p.52)こと。バカヤローという怒号を「このひとは声が大きいなあ」と捉える。
事実とは「五感で把握できるレベルの情報」(p.53)という説明に、科学の経験主義を連想した。連想的に考えれば、「このひとは声が大きいなあ」という記述は科学的だといえる。
「事実」の反対にある「解釈」は、僕の言葉の感覚だと「意味」とか意味が絡まった「物語」。「物語」には事実とはまたクオリティの異なるリアリティがあっておもしろいのだけど、溺れることもある(物語の根 - 反言子)。思いつきだけど、「感銘」っていうのは意味的な感動で、「感激」っていうのは五感的な感動なんじゃないか。言葉選びはなんでもいいんだけど、自分のこころには、意味的コンディションと五感的コンディションみたいなものがあって、それらが極端にずれているのは不健康な感じがする。そういう悪寒には「意味を閉じる」と効くんじゃないかな。

直観ブースト

僕は日記を書くのが遅い。「今から三十秒間で明日のブログをしゃべってください」(p.118)という指令はたしかに強烈だと思う。僕はこういうメソッドを多用したいとは思わない。雑になるからとか、そういう質的な問題というより、風情の。質に関しては、むしろ上がるだろうと思う。直観は強いから。時間の制約とか、問いかけを使って、そういう武器を引き出すのは実用的だと思う。納得できる場面では使いたい。しかし使いまくるものでもないという感覚から「ブースト」と言う。

叩かせ台

筆者は「任せる」をこう言う。

p.128-129

このようにやってほしい。ただ、自分ではできない。だから、あなたにお願いする。あなたは私よりうまくやってくれるだろう。そこに私は期待している。もし、私が考えているよりもうまいやり方があるなら、ぜひ提案してほしい。二人でよりよい成果を出していこう。

この言葉にケチをつけるほど難問はないと思う。僕の好きなのは、第一に、相手に「このように」への理解を求めているところ。批判というものにはまず理解が大事だと思っている。そこんとこ大事にしているのが気分いい。
「叩き台」という言葉がある。つい使いたくなってしまう言葉だけれど、どこか無責任なひびきがある。わたしはここまでやりました、あとは勝手に叩いてください、あとは知りません。ソフトウェアは使われているときの価値が最大になるように、叩き台は叩かれていなければ意味がない。叩き台が叩かれるための責任感をもち、マネジメントすること。それには理性とか敬意とか信頼みたいなものが欠かせない。乱暴だけれど、こういったきもちを「叩かせ台」という言葉に無理やり詰め込みたい。叩かせ台とはプロダクトの思想ではない。運用とサポートの思想だ。

言葉のリフティング

「ちょっとお時間を下さい。……すみません、出ませんでした」(p.97)という言葉は可笑しい。許される感がすごい。僕はひととしゃべるのがへただ。意欲もない。ただ、最低限の社会生活をおくるなかで、ひとはしゃべれないという自分の事態についてしゃべるという選択肢があることを知った。それさえもうまく行使できてはいないけれど、一寸くらい先はみえるようになる。
レスポンス・ラリーというコラボレーション・パターンがある。やりとりがはずむと楽しい。それはまったく共感できるし効果的だと思う。しかし難しい。無茶だと思う。それでも、たとえラリーが続かなくても、ラリーを終わらせない、という道があると思う。「わたしはいまレスポンスを返すことができない難しい状況にある」というレスポンスを用いることだ。
「ラリー」ではないし「レスポンス」でもない。よくある言い回しを借りて「言葉のリフティング」。あまり語呂がよくないのであたまのなかでは単に「リフティング」とよびたい。はじめは「現象学的なになに」みたいな言葉も探したのだけれど、まあ。

身の丈と重ね描き

この言葉はかなり個人的な言葉遣いがにじんでいてあまり伝わらない着想。
「牛丼が好きなので食費も安くつきます」(p.227)という言葉のお茶目さ。自分の満足のためのリソースは自分なりのものだ、なんていうのは同語反復だけれど、本当それ。そして、それでよい。
ここで僕は「五感」を思い出す。牛丼がうまいというのは五感だ。では牛丼の意味は。牛丼という言葉に思い込みを入れるのは簡単だ。牛丼を味わいたいなら、意味は閉じるべきだ。
「重ね描き」という、日本の哲学者の言葉がある。連想的転用なので出典は述べない。生活の満足もまた、僕は重ね描きによって捉えたい。下に五感の満足がある。牛丼がうまい。その上に意味の満足がある。牛丼のそれが何かはわからないが。もし牛丼の意味を追求したいなら、それは牛丼の五感の満足を確保している限りにおいておこなう(べき、というか、それが健康的)。もし意味の追求によって牛丼の五感の満足を失ってしまうなら、意味を閉じる! 重ねて描くことのできた牛丼の五感と意味は最強だ。(やはり物語の根で言っていることなのだけれど)
というような「言葉」を考えました。

ちょいデキ! (文春新書)

ちょいデキ! (文春新書)