1学年下の女子高生の受験ブログとかをみると元気がなくなってくる……。





メモ


情報はなんらかの文脈の上にある。サイトやウェブそのもの。そこから一部を取る。文脈を踏まえ情報を抽象し、自分の中に文脈を再構築する(なにいってんだ)。これが情報を受けるということ。
負担が大きい。まず大きな文脈に直面しなければいけない。そしてそれを内面化しなければいけない。これが読む負担となる。
ならば文脈から切り離した形で情報を提供すれば、見る側が助かる。親サイトの説明や記事の詳細を省き、ときに簡素なコメントを添え、見出しとリンクだけで情報が羅列される。ひとつのリンクが情報として独立している。一口サイズ。
ただでさえ膨大だが、ウェブには情報が増えつづけている。とくにウェブでは即時性が重視され(ここは個人的に疑問)、効率的な情報収集が求められる。そこで羅列による負担の少ない情報提供が意味をなす。
RSS(リーダの利用)の普及もこれを裏付けていると思う。では、RSS(リーダの利用)は羅列(による情報提供)を駆逐するのか。反論1:中の人によるフィルタリングは機械では代替できない。反論2:「簡素なコメント」でも価値がある。
さらなる活路。
ネットサーフィンという文脈の豊かな、だが負担の大きい情報入手。羅列という文脈の希薄な、だが負担の小さい情報提供・入手。1、羅列から文脈を構築し、それを提供する。2、文脈に根付きながらも、あたかも羅列のように見せる。1、大きな文脈から小さな文脈に圧縮する。2、情報の破片から小さな文脈を構築する。いずれにしろ〈編集者の負担>読み手の負担〉となるのは否めない。
小さな文脈とは。たとえばトラックバック追跡は機械でもできる。一見関係のない事柄同士を結びつけるのは人間にしかできない。意味内容の解釈も機械には難しい。「きみは賢いね」という文も、肯定か否定かを見極めるのは難しい(これこそ文脈による)。対立・矛盾・葛藤を構築し、活路を示す。つまり視点の提供。
娯楽のパッケージングと知のパッケージングとは別物だろう。
一口サイズの情報の提供をもとに一口サイズの情報を提供する、いわゆる孫ニュースサイト。文脈の希薄化により情報の質は低下するか。もっといえば、文脈なんてものは重要なのか。個人ニュースサイターが「僕は取り上げるニュースをすべて熟読し、関連情報を調べ上げています」と言ったところで、「だから?」なのだろうか……。
ウェブ上の情報とゲシュタルト知覚。「情報のカタマリ以上の何か・感じ」。情報の組み合わせ、サイトのフインキ、一つの作品としての一回の更新。とりあえずゲシュタルト知覚というものをもっと調べないと……。