書きかけシリーズ4.「サイト巡回にハマっている」という幻想

なぜゲームはハマるのか。

  • 読書、勉強、テレビや映画の試聴、それらとは比べ物にならないほどゲームはハマる。サイト巡回にも近いものがあると思う。何時間も同じことを続けられるなんて、ゲームでもなけりゃ異常だ。とにかく、僕にとってゲームはハマる。
  • なぜか。その理由を考えるのは有益である。ハマるメカニズムがわかれば、それを応用して、様々なことにハマる手掛かりとなりうるからだ。もし勉強にハマれたらしめたものである。

ハマるというのは、嫌な気持ちが湧かずにあることを続けられる状態である。

  • 先日style-[dp]:Day of daysさんでファーレントゥーガについて書かれているのを見て、僕もプレイしてみた。この作品をプレイするのは何度目かになるが、またもやハマってしまった。テスト勉強そっちのけで一日に数時間(もしかしたら二桁?)もプレイした。
  • 勉強からの逃避ということもあるが、それ自体のハメ要素からここまでハマったのだろう。その内実は定かではないが、人をハメさせる要素をハメ要素と呼ぶことにする。ハマる理由を問うには、このハメ要素の性質を考えることが重要であろう。

なぜハマらないのか。

  • (ここで述べるのは「僕にとってハマらないもの」でしかなく、同様に、この文章から得られる結論は特殊なものでしかない。それでも、「僕のような人」には少しでも価値はあるだろう)
  • 読書、テレビや映画の視聴はなぜハマらないのか。
    • 受身だからだ、と考えみよう。これらは書き手の用意した情報を受け取る営みである。自分から何かを表現することはない、つまり主体性を欠いている。したがって、「自分らしさ」を見出すモチベーションが薄れ、真剣さがいくらか萎えてしまう。
    • しかし、これは正しくない。これらの営みにおいて、主体性を十分に発揮することもできる。つまり、読書などでも「自分らしさ」は見出せる。記号や映像に対して意味付けをすること、つまり解釈ができるからだ。解釈の仕方は人によって異なり、絶対の答はない。対象に解釈を試みることで、「自分らしさ」を見出せる。つまり、読書などでも主体性を発揮できる。
    • 「受身だからハマらない」というのは正しそうだが、本当に受身であることなどわずかだ。多くの営みには主体性が欠かせない。それにも関わらず、ハマらないことがほとんどだ。したがって、「主体性があれば(必ず)ハマる」というのは間違っている。ハメ要素は、単なる主体性だけではない。とはいっても、ハメ要素の一つとして主体性を欠かすことはできないように思える。
  • 勉強はなぜハマらないのか。
    • 勉強を嫌がる要因として、やらされるものだからだ、という考えがある。これはモチベーションのメカニズムなどに深く関わる考え方だとは思うが、「ハマる/ハマらない」の話には関わりが薄いと思う。「やらされている」と感じるのは、ある種の社会的な感情である。いわば勢力に対する反発であり、やや高度な感情であるともいえる。一方で、ハマっている状態というのは原始的である。他のことを何も考えず、ある一つの対象に注意を注いでいる。いわば「我を忘れてい」て、このときに「やらされている」という社会的な感情を抱くことは考えにくい。つまり、「やらされている」という事実はモチベーション(行為の始まり)には大きく関わるが、ハメ要素(行為の最中)とは深いつながりをもっていない。(だからこんなに長く書く必要はない節なんだけど)
    • 僕はどのように勉強にハマらないか。「(ア)Aであれば(必ず)勉強にハマらない」と命題を立て、「A」の内容を考えよう(これは僕の体験によるものだから、少なくとも僕の中でこの命題は「真」である)。このとき命題(ア)を定めれば、命題(ア)の対偶である「(イ)勉強にハマるのは(少なくとも)Aでないときである」も定まる(同様に、「真」である)。命題(イ)は、「なぜハマるのか」という問いに答える大きな手がかりとなるだろう。(なんてゆーか、なぜこんな回りくどい書き方をしているのか自分でも不可解だw)(「必ず」と「少なくとも」というのは直感で付けたんですけど、論理してどうなんでしょう。なんか混乱してわかんなくなっちゃった。つーか最初から崩壊している?)
    • では、命題(ア)の「A」を考えよう。僕が勉強にハマらないのは、「(A1)書いていないとき」および「(A2)できないとき」である。これは僕の経験であり、証明はできない。もっとも、この文章は私的な論考なので、経験であることが証明に相当するだろう。要するに、(ア)に(A1)(A2)を補ったものは「真」であると言いたい。この(A1)(A2)を元に、命題(イ)を考えていこう。
      • 「(イ−A1)勉強にハマるのは(少なくとも)書いているときである」。書くとはどういうことか。意味というのは本来、頭の中に存在する目に見えないものである。それを文字にすることで、意味を目に見えるようにできる。意味を解することは頭の中が変化することであり、書くとは、その変化を目に見える形にするということである。ハマるには刺激がいる。たとえば、変化である。そして、それは目に見える変化でなければ実感が湧きにくい。書く勉強は変化が目に見える。この変化の可視性が、ハメ要素の一つである。
      • 「(イ−A2)勉強にハマるのは(少なくとも)わかるときである」。理解にさく労力が少なくて済むほど、それはわかり易いということであろう。ここで疑問が浮かぶ。わかり易さの極限は、理解する必要がまったくないことである。だが、これは主体性と矛盾する。理解しようとしないことは、主体性を捨てることであるからだ。したがって、ただわかり易ければよいというわけではない。思考停止に陥らない程度の、かつ適度なわかり易さがハメ要素の一つである。たとえば、テレビのニュースなどを理解するのは簡単だが、それにハマることはない。ニュースのようなわかり易すぎるすぎる情報は、視聴者を思考停止に落とし入れやすいからだろう。
    • 主体性とわかり易さは矛盾しそうで危なっかしい。また「難しいことを必死で努力するからこそハマるんだ」あるいは「主体性を発揮するために自力で頑張るからこそハマるんだ」という人もいるだろう。僕にしてみれば、そういった営みにハマるとは考えにくい。たしかに達成感などを味わえる素晴らしい営みであるが、ここでいう「ハマる」すなわち「嫌な気持ちが湧かずにあることを続けられる」ことは難しい。「嫌な気持ち」に立ち向かうことも立派だが、僕のいう「ハマる」はそういうものでない。あくまでわかり易さが保たれつつ、なおかつ主体性との絶妙なバランスが重要である。

ハメ要素とは、自分の望む変化が目に見えて現れ易い性質である。

  • 以上で太字にした言葉を拾っていこう(ちなみに「dfn」タグです。なにか知的な感じがするので、僕はこのタグが好きです)。すなわち「ハメ要素」「主体性」「変化の可視性」「わかり易さ」である。主体性は、自分の望みを生み出す。その望みの叶い易さが、すなわちわかり易さである。また、望みが叶ったという変化が、目に見えて現れることで刺激になる。以上より、ハメ要素をこう定義する。ハメ要素とは、自分の望む変化が目に見えて現れ易い性質である。
  • あまりに抽象的になりすぎた感がある。ここで改めてゲームの話に戻ろう。「ファーレントゥーガ」は戦略系のシミュレーション・ゲームである。
    • ゲームを営む者は、読者や視聴者でなく、プレイヤーである。ゲーム性の少ないノベル・ゲームなどでも、プレイヤーは自身の判断によって選択をおこなう。その選択によってゲームの展開に変化が起こる。この相互性が、プレイヤーに主体性を求めていることを示している。とくに「ファーレントゥーガ」は戦略ゲーである以上、プレイヤーの主体性はなおさら重要である。
    • 「ゲームの展開に変化」というのは目に見えて現れる。これはゲームや機器に組みこまれたテクノロジの賜物であろう。コントローラを触るだけで画面が変化する。戦略ゲーは動きの少ない方だが、たとえばアクション・ゲームの場合は目に見える変化が大きい。自分の操作で画面が躍動する、この変化の可視性が、ある種のゲームにおける醍醐味である。
      • (見えない部分での展開の変化を「フラグが立つ」などと言いますが、最終的にはそれも目に見えて現れてきます。もしかしたら、セックスするかもしれません。どーでもいいけど、僕は、フラグは立つものでなく立てるものだと思うのである。でもどーやって立てればよいのわかりません)
    • 勉強では自分の手で字を書かなくてはならないが、上記のように、ゲームだと勝手に動いてくれる。ここにわかり易さがある。自動化された部分が多いということだ。たとえば、実際に戦争を指揮するのは難しいが、戦略ゲーではそれが簡単にできる。操作と動きの自動化(コントローラだけ触ればよい)に加え、思考の自動化(勝手に戦争してくれる)もおこなわれているのだ。主体性が保たれつつ、ゲームはわかり易い。
  • 以上が、僕がゲームにハマる理由である。また例に挙げたように、この理由は勉強においても当てはまる。

サイト巡回にハマるには。

  • (後略)

(メモ)達成動機とゲーマー病