書きかけシリーズ3.僕はゆえゆえのことをどう思っているのか

(メモ)
・僕はゆえゆえに萌えているか。あるいは、恋しているのか。
 ・萌え:萌えとは「安堵」を念頭においた「内」への感情である。「内」とは「対象を内面世界で展開すること」である。ふつう萌える対象は「不完全」であるため、妄想などによって補わなければならない。それが萌えるということであり、さらに「安堵」を伴ったものが僕にとっての「萌え」である。
 ・恋:恋は「外」へ向かう感情である。「片思い」の段階ではむしろ萌えに近いが、恋の最大の目標は「両思い」にもちこむことであり、「内」では完結しない。また「恋は甘酸っぱい」や「恋愛は冒険である」などと言われ、「安堵」を求める萌えとは相反している。
(中略)
 ・自己投影
 ・羨み
・僕がゆえゆえに萌えていない理由:


・永遠に実らない恋を求めるのはつらい。僕がゆえゆえに恋しても、得られるものは何一つない。



(文章)
(方針:僕は、ゆえゆえ!)
このまえ「萌えるなら本屋ちゃん。友達にしたいのはゆえゆえ。」と言った。何かが違う。やはり僕はゆえゆえに萌えているわけはない。かといって、友達にしたいわけではない。言い表せないゆえゆえへの気持ちは大きくなるばかりで、どう説明づければよいのか途方にくれている。もしかして、これは恋という感情なのではないか。
恋とは何か。萌えは感情を自己完結させるのに対して、恋は外へ向かう感情である。「片思い」の段階ではむしろ萌えに近いが、恋の最大の目標は「両思い」にもちこむことであり、外への感情である。また「恋は甘酸っぱい」や「恋愛は冒険である」などと言われることがある。したがって、恋は萌えと相反するものである。僕にとっての萌えとは、「安堵」を念頭においた「内」へ向かう感情であるからだ。
ゆえゆえに萌えているオタクなんて日本にいくらでもいる。「萌え」の定義にこだわらなければ、おそらく僕もその一人である。客観的にみればくだらないことである。だから人は萌えるのだろう。「たくさんのオタクに萌えられているゆえゆえ」でなく、「自分にとってのゆえゆえ」として、ゆえゆえを愛でるのだ。そこにはかけがいのない一対一の関係が生まれる。当人にとっては、くだらなくなどない。
僕はゆえゆえに萌えていない。僕の言う「内」とは、「対象を内面世界で展開すること」である。萌える対象は常に「不完全」であるため、妄想などによって補わねばならない。それが萌えるということである。しかし、僕はゆえゆえという対象を何も展開していない。絵で映されるゆえゆえの姿、言葉で示されるゆえゆえの気持ちに、一切の補完なしに感情を抱いている。
(後略)


(メモ)
自己投影と羨み。

(後記:この文章はいつかしっかり書きたい)