書きかけシリーズ5.学びの展望

僕なりの学びの展望をここに記す。
●目的と手段──皆が学びを楽しむように、そのために賢くなる。
僕が学ぶ目的とは。誰もが当たり前のように学びを楽しめる環境を作り出すこと。あるいは、選択肢を生み出すこと、というほうがニュアンスが近い。それぞれの望みに応じて自由に学び、それを楽しむ。「ゆとり教育」の方針にも近い。いわば「学びの多様化」と「学びの娯楽化」を目指している。もちろん、学ぶことが人生のすべてではない。だから、選択肢なのだ。学びやその楽しさに価値を見出す人たちは、誰もがその選択肢を掴み取れるべきである。彼らの手の先に選択肢を差し向けるのが、僕の目的である。
そのために、僕は賢くならねばならない。賢くなるとはどういうことか。「僕が賢くなる」ということについて、二つの視点から眺めよう。一つは「今の僕」からの視点で、もう一つは「そのときの僕」(=賢くなった僕)からの視点である。
まずは、「今の僕」から「賢くなった僕」を眺めよう。「賢くなった僕」は、「今の僕」がわからないことを理解できるだろう。要するに、難しいことがわかる。「今の僕」がわかることなどたかが知れている。日々の学習において、「今の僕」は易しいことを懸命に理解しようとしている段階にすぎない。「賢くなった僕」はそうでなく、難しいことを懸命に理解しようとしていることだろう。「今の僕」からみて、「賢くなった僕」は難しさに向かっているのだ。
つぎに、「そのときの僕」から「賢くなった僕」を眺めよう。未来の自分をイメージして、その視点から未来の自分をかんがみるということだ。「今の僕」とくらべて、「そのときの僕」は賢くなっている。「今の僕」にとって難しいことが、「そのときの僕」には易しいことに思え、たやすく理解できるだろう。難しいことを多く学んだことで、相対的に易しく思えることが増えたからだ。先ほどとは逆に、「そのときの僕」からみれば、「賢くなった僕」は易しさに向かっているのだ。
●一般化──学者と一般人とでは、何を楽しむかが違う。
このギャップについて考えよう。「難しさ」と「易しさ」というのは、人によって判断が大きくわかれる。ある人にとっては易しい事柄が、誰からも理解されないおそれもある。このギャップが、僕の目的「学びの娯楽化」における障壁である。
「今の僕」を一般化して言えば、(学者とかでない)「一般人」のことである。同様に、「賢くなった僕」を「学者」と呼ぼう。「一般人」と「学者」のギャップとは。「学者」は論文によって学びを表現したり、受け取ったりする。論文という洗練された表現が、「学者」にとっては易しいからだ。論文が易しいというのは語弊があるかもしれない。少なくとも「学者」には論文が適している、という意味である。
しかし、「一般人」には論文は適さない。用語や論理を読み解く訓練を受けていないからだ。つまり、論文は難しい。「一般人」に適した学びの媒体は、エッセイやコラムなどの軽い読み物や、新書レベルの書籍である。だからといって、楽しめないわけではない。「学者」が論文に没頭するように、「一般人」もまた学びに没頭することができる。ただ、その対象が違うのだ。求めるものが、ずれているのだ。
ここで危惧されることがある。僕が賢くなったとしても、多くの人々が学びを楽しむのとは無関係なのではないか。賢くなった僕の見出した楽しみは、わずかな人にしか伝わらないのではないか。僕と彼らとは、ずれいているからだ。
●解決策──わかりやすい文章を書く。

(メモ)
このギャップを埋めなければいけない。

物語のおもしろさ、結果論的わかりやすさ
文章力
経験言語 そのうち詳しく説明したいが、
 言葉、構造、具体例と心
型は個性を最大限に発揮するために作られた

●志──皆にとっての易しさを追う。

(メモ)
優しさ。
書けることと知っていることのレベルのちがい、いいこともわるいことも。
書くこと、心を読むこと、構造を見抜くこと、楽しむこと、自分自身が!