書きかけシリーズ7.経験するとはどういうことか

失敗を恐れつづける怠惰
僕は失敗することが嫌いだ。しかし、失敗を経験することで、能力の不足や意識の欠如に気づき、改善の道が示される。自分の至らないところを受け入れられるのなら、失敗はときに成功以上の価値をもつ。至らないところを受け入れるといっても、それは自らの人間性を否定することではないし、喜びや達成感につながる有意義な心構えである。また失敗そのものについても、高校生である僕にはほとんどリスクがない。大いに失敗し、大いに学ぶべきときである。

──というのは理解している。それでも失敗が嫌いなのだ。正直にいえば、僕は失敗を恐れている。「細かいことは気にせず、実際にやってみるのがよい」というのは広く通用するアドバイスだが、それも受け入れられない。これは「怠惰」の一言で説明がつくのだが、なぜ怠惰なままでいられるのだろうか。実践すれば問題を解消できる、という確かな実感が欠けているからだ。つまり、経験による裏づけがないからだ。

「理屈ではわかっているの。でも……」という言い回しはシチュエーションによっては萌えるが、僕はこれを怠惰の言い訳にしている。
もう一つ言い訳がある。僕は自分の納得できないことをやりたくない。これは悩みの一つだが、悩みはいずれ解決または解消されていく。その過程を人に伝わりうる形にすれば、同じような悩みに苦しんでいる人への助けになる。僕と同じように「納得できないことをやりたくない」と悩んでいる人と出会ったとき、僕はどのように助言すればよいのだろうか。「やってみればよい」と言っても、聞いてもらえない。自分自身が納得できないことを、人にどうやって納得させられるのか。
納得することを諦めて「やってみれば」、僕の中で問題は解消されるだろう。しかし、救われるのは僕だけである。結局「やってみればよい」という苦言をしぶしぶ受け入れるほか、選択肢がない。そうやって多くの人々が苦しんだことだろう。これからも僕と同じように苦しむ人々が生まれつづけるだろう。それが、忍びない。人からみればくだらない悩みだが、僕にとって、僕のような人々にとって、それは代えようのないこだわりである。
要するに、わがままを通したいのだ。僕自身のために、そして過去に生きた僕のような人々への哀悼と、未来に生きる僕のような人々へのはなむけのために。これがもう一つの言い訳である。
(「怠惰でいる」と「わがままを通す」というのは、消極/積極でそう反している、

繰り返される後悔「あのとき──していれば」
すべてを経験することはできない。だから、教育や説教がおこなわれる。「やってみればよい」というアドバイスも、先人たちが導いたすばらしい説教である(皮肉ではない)。しかし、経験の浅い者はたいてい教育や説教に耳を傾けないものだ。今の僕がそうである。そうやって「語るオトナ」と「聞かぬコドモ」が、それぞれのこだわりを守りつづけている。経験したがゆえに語る。経験していないがゆえに聞かない。なんともはがゆい行き違いである。

(後略)



(メモ)
経験は論証にまさる。

「小説を読むとは、一度限りの体験を得るということだ」