書きかけシリーズ8.ホームページを忘れていませんか?

  1. 世界と場の認識──たまに頑張ってたまに息抜きするものだよという話。
  2. ウェブという世界と場の模索──なにごとでも馴れると楽しいやという話。
  3. 場のあり方を強制するアーキテクチャ──技術は文化を被い尽くすぜという話。
  4. 家という安らぎ、そしてホームページ──家ってやっぱ特別だねという話。
  5. ただいま、おかえり──蛇足なメタサイト論、自分語り、自サイト語り。

世界と場の認識
 人が漠然と「世界」を口にしたとき、それは何を指しているのだろうか。物理的な空間でなく、その人の内にある観念であると思う。誰かが「世界へ羽ばたく」や「社会へ旅立つ」という行為をしたところで、世界や社会が変わることはない。それは、個人が世界に目を向けること、すなわち志をもったり改めたりすることといった、心の内で済む行為なのだ。社会人が存在するのは、その人が社会を認識するからである。世界というものが存在するのは、人が世界を認識するからである。
 世界は、物理的な空間でない、観念である。書を読むことを「世界に触れる」と言い表したり、斬新なものと出会ったとき「世界は広い」と感じたりする。このとき世界はとても大きな何かを意味している。この大きさゆえに、ときに人を惑わしたり、不安に落としいれたりすることもある。「大きな世界のちっぽけな自分」に打ちひしがれないよう、強い意志や実力をもつ必要がある。このリスクに立ち向かうことが「世界へ羽ばたく」行為ではないだろうか。
 ここで世界よりも小さな何かを認識する必要性がうかがえる。人は必ず何らかの空間や関係に所属している。国や学校や会社などの空間、あるいは家族や恋人や友人などの関係である。これらの空間と関係により作られるものをと呼ぶことにする。
 ときに観念までをも含み無限に広がる世界と比べて、場は把握しやすく、安息を得やすい。場が小さいほど住みやすく感じる。会社や学校よりも小さな家庭の方が安らぐし、(僕には想像のしようがないが)恋人どうしでいるときはなおさらだろう。逆に、世界に馴れるなどというのは想像しがたい(悟りを開くということか)。
 人は冒険をおかそうと大きな世界の中に立つ。一方で、そこで我を失わないために、小さな場にも安住する。小さな場、把握しやすい場ほど、安息を得やすい。大きな世界と小さな場を認識することで、心のバランスを保つことができるのだ。

ウェブという世界と場の模索
 人が漠然と「ウェブ」を口にしたとき、それは何を意味しているのだろう。こんなことを思うのはヘビーユーザだけかもしれないが(というか僕だけかもしれないが)、それは、ウェブ上の読み手と書き手の心や、娯楽や知的営みに精をだす人々の「現実」行為が入り混じった、観念である。物理量で表せるような単なるデータの集まりではない。つまり、把握しきれない大きな世界。
 (今こんな文章を読んでいるくらいだから)みなさんはいつもウェブを見ているだろうが、そもそも「ウェブを見る」ことなどできない。見ることができるのは、ウェブの一側面にすぎない。たとえ、あらゆるサイトを見て回ったとしても不充分だ。情報の背景にある人の心をすべて読み取ることはできないからだ。限られた情報、秘められた心、これらの一部をつかみ取ることが「ウェブ(の一部)を見る」ということなのだ。
 どの「一部」に視点を当てるかで、ウェブという世界は大きく違って見える。これは現実の社会よりも顕著である。ウェブには絶対的に必要な情報がないため、「見る/見ない」をきっぱりと区別できるからだ。政治や経済(これが「絶対的に必要」なのかはわからないが)に関心のない僕でも、ニュースなどから知らずのうちに情報を得ている。一方ウェブでは、たとえば日記サイトに関心のない人はまったく見ない。そうすると、その人にとってのウェブは、日記サイトのない世界となる。
 ウェブ(全体)に目を向けても多すぎる情報に惑わされるだけだ。したがって、「巡回サイト」を絞っていったり、自分に合ったサービスの使い方を模索していくことで、ウェブを把握しやすいものへと認識していく。人によっては自分のサイトを運営し、そこを自分の場の基軸とする。そこからウェブ特有のハイパーリンクあるいは心的なつながりによって関係が構築されていく。ウェブという大きすぎる世界の中で、自分なりの把握可能なを模索していくのだ。どこを見るか、どう使うか、何と関わるか、何を感じるか、サイトをもつかもたないか、これらの問いへの答を探してくことで、安息を得ていくのである。
 以前から流行っているホスティング型のブログサービスをみると、うまく場を形成しているなと思う。あのサービスに登録することで、まずサイトをもつ。それはウェブの利用方法を決定することでもある。そして、ブログを運営することでブログに関心が向き、閲覧するサイトもブログが多くなるだろう。さらには、ホスティング型サービス特有の適度に閉鎖的なコミュニティが用意されていて、関係を構築するのも容易だ。ウェブに立ち尽くす初心者を、住みやすい場に案内してあげるのにうってつけのサービスだと思う。

場のあり方を強制するアーキテクチャ
 しかし、ここに問題が潜んでいるように思える。ユーザの認識する場、ひいてはウェブそのものが、アーキテキチャというユーザの操作できないものによって変えられるということだ。もちろん、先のサービスのようにある人にとって住みやすい場を形成することもある。しかし、それによってユーザの試みが制約され、ウェブ文化そのものが一方向に傾いていくおそれもある。(ここで使っているのはローレンス・レッシグ教授のいうアーキテクチャのことですが、僕はよくわからず使ってます)
 blogやRSSSBM(こんなに簡単に表記できるのがまたニクい)の普及により、情報収集がやりやすくなった。無駄の省かれた情報を受け取ることで、多くの情報を見通せ、必要なものだけを選び取ることができるようになった。それを毎日行うことで、ウェブは新聞を代替できそうな(人によってはしている)ほどのメディアになった。とても合理的である。
 合理的ではあるが、受身に徹しすぎではないだろうか。選び取るという点では能動的といえるが、その源は、与えられた選択肢である。ウェブでは検索やリンク巡りから選択肢すらも自ら探し出すことができる。このとき、情報を求めようと具体的に行動を起こさなければ、情報と接することができない。他方で、羅列された見出しを眺めるなら、
 (後略)
 
 
 (メモ)
  ノルマ化
 新しい情報に迫られるせんえつ
 「急かされる」
 墓ニュ

家という安らぎ、そしてホームページ

(メモ)
あらゆるウェブサイトは、誰かにとってのホームページたりうるのだ。
それはまさに、家以外のなにものでもない!


ただいま、おかえり

(メモ)
「自サイト語り」
これだけは自信をもって言える。黒板ほ゜は、僕のホームページである。「まほらほ゜」、「黒板ほ゜〜ぽた〜ん♪」 「情報と認知の輪廻譚」「心とバイナリの融和点」「知性を娯楽する悦び」情報の織り成す物語

(後記:オチは、なんとしても「おかりなさいませ、御主人様」と書きたい!)