なぜ表現が冗長なのか

古文を読んでいると、やたらと表現が冗長に感じる。一文が長いし、語尾に敬語とか助動詞が連なると呪文になる。ていねいな言い方になると冗長になる気がする。間をおくことで、なにか効果があるのだ、とばくぜんと感じる。
速読の指南として、よく「音読しないこと」が挙げられる。音声として捉えなくても意味を解することはできる、そしてそのほうがはやい、ということだ。たしかにそれで意味はつかめる。とくによく知っている事柄を読むときは、おのずと速読のようになり、かつちゃんと読めている気がする。意味を解するのはどこまでも高速化できそうである。
あいまいな言い方になるが、しかし「ていねいな雰囲気」というのは高速化して捉えられないのではないだろうか。そもそも人間はしゃべるものだ。発話する能力は人類の誕生からあったらしい。その段階ではコミュニケーションの高速化はありえない。こういえる。「声」があるのだ。「声」の発し手は時間を支配している。彼は僕が話すのよりもはやく意味をつかむことはできない。彼に変な特殊能力がなければ。僕は彼の時間を支配している。
「声」を文章にしてみるとどうか。時間は読み手に支配される。ゆっくりと口を開きたいところで、彼は速読している。たまったものじゃない。どうしよう。「ここはゆっくりと読んでください」と書こうか。その警告に対しても彼は速読する。ならばこうだ。読みにくくすればいい。時間の支配権がわずかに返る。そこに「ていねいな雰囲気」が現れてくる。それにしても、いまいちな言葉だ。あと、速読してるひとは平仮名を飛ばしがちだから意味がない、という反論もある。あーもー。でもまあ、学習記ですからこのようなものでもかまわないと思うのです。