文章に書かれた思考はまさしく「わたし」であるか?

数学の授業が本格化してきまして、難関校の入試問題に取り組んでいる次第であります。先生曰く、確率は二次で一番難しい、いくらでも難しくできるとのことです。解説に耳を傾け黒板を凝視し理解しようと努めるのですが、次第にこれが確率の問題であるという認識がなくなります。確率というと「実験」をして「式化」して解くというパターンがよくありますが、「式化」した段階でもはや別な問題にみえるのですね。認識が浅いせいかもですが、ぎりぎりまで意味の抑え込まれた(としか認識できない)目前の体系こそ、ああ数学であるよ。

「実験」をしているときは(たとえば「n = 1, 2, 3,……」という値を一個ずつ当てはめていく)、たしかに「僕が考えている」と認識しています。「式化」してしまったら、僕の認識から離れたつまり数学になります。体系を組み替えて解をみちびこうとするとき、「紙に書かれた文字が考えている」と感じるのは、やれやれ胡散臭いですが、とにかく「実験」における認識とは別なものです。書いてカタチにするから、だから離れても大丈夫なのでしょう。そこに論理ですもの。

文章を書くこともまさにこのようでして、書いているうちに思わぬ方向へそれたという現象も同じ理由によるものだと思います。書くと、文字も考えだすのですね。メルヘンですがでもでも、お前は書かずにここまで考えられたかと問い詰められますと、いいえ僕は書かずには辿りつけません。ならば文字が考えたのです。カタチにして目の前に貼りつけるから、僕という認識を離れても生存していられるのですね。カタチを手がかりにして先へ進みはじめると、そこに別な思考が現れます。ですから僕はカタチに書き、それと対話しながら考えるのです。