勉強は個性を殺さない。勉強は個性を育てない。勉強と個性は関係ない。

わたくし、受験生ですから、勉強しています。誤解されている方は少なくないと思いますが、わたくしはそれほど勉強できません。偏差値が高くない、という意味です。しかも勉強を始めたのはさいきんですから、勉強初心者であるといえます。やっと勉強というものを捉えはじめた程度のいまですが、感じたことを申します。勉強と個性は関係ありません。
勉強は個性を殺しません。知識の詰め込みに対する反発として「ゆとり」が叫ばれました。皮肉なことに、さらにその反発として知識というものが再評価されました。考えたことを表現するための型や部品として知識はとても便利です。知識と思考を混同させるような粗末な教育がなされない限り、知識を身につける勉強が個性を殺すことはありません。

勉強は個性を育てません。あれ。

ここで謝罪申し上げます。わたくしは本日、「勉強と個性は関係ない」ということを直感いたしました。「勉強は個性を殺さない」かつ「勉強は個性を育てない」ことを説得できれば、おそらくこの直感にご理解いただけるでしょう。そしてわたくしはたしかに、「勉強は個性を育てない」ことを実感していました。実感というのは、きっと説明できるはずだ*1、という判断です。しかし文章を書きながら考えてみますに、どうやらその判断は軽率であったようです。わたくしの直感は誤りであるといわざるをえません。本来ならばこのような優柔な意見を読み手のみなさまにお見せすることは礼儀に欠くと思うのですが、できそこないなわたくしの思考にさえ関心を寄せてくださる読み手のかたがいらっしゃるかもしれないということを思うと、よいではないか、と思うのです。さいきん味を占めてまいりました箇条書きをもって、以上の事柄に関係ありそうな、なさそうなことについて、述べさせていただきます。きをふしでございました。ごきげんよう

  • わたしが実感する個性と、ひとに認識される個性。
    • そのひとのもつ関心や好き嫌いを基礎個性とよぶ。
    • 基礎個性を表現すること、またその技能を個性表現とよぶ。(本文でいうと「考えたことを表現するための型や部品」「知識」)
    • なんやかんやで個性という言葉が使われる。意味はだいたい個性という感じである。
  • 個性という価値に疑いを感じる。
  • 基礎個性に富み、かつ個性表現に乏しいものは、個性的であるか。
  • 個性表現を全員が身につけたとき、どうか。
    • 基礎個性はさまざまであるから、皆それぞれが個性的になる。
    • 「たまたま考えたことがかぶった」だけで個性が薄れる。
      • このとき、個性が薄れるのは「いつ」か? 基礎個性の重複が、すでに個性の薄れなのか。または、一様な個性表現がなされてはじめて個性が薄まるのか。
      • 「個性がない」という意見は何を意味するのだろうか。そのひとの「どこ」に向けられるのだろうか。
      • ある貴重な鉱物が大量に発掘されると価格が暴落する。鉱物の価値は偶然で、個性の価値もそのようなものでは?
    • ところで、日常をともにすることでじんわりとみえてくる基礎個性、というのも考慮しなければならない。しかしこの要素まで含めるとかなり複雑な問題になるので、ここでは排除している。
  • 勉強によって生じる個性とは。
    • 共通のカリキュラムのため、勉強によって基礎個性は育たない(一様に広がる)。
    • しかしだな、わたくしは「ある大学」のために勉強をする。「ある大学」は、わたくしに「ある勉強」を求めている(わざわざ入学試験がおこなわれることから明らかである)。「ある大学」を望む、受験生の一部分であるわたくし(たち)は、「ある勉強」をする。そういった分岐を通して、受験生はそれぞれ別々の分野に目を向けることになる。
      • ま、たかがしれている分岐だよな、とも思う。

あ、あれ? ふたたび、きをふしです。驚いたことに「勉強によって基礎個性は育たない」と書きました。そうなのでしょうか。全体的にとてもおかしい。なんだか、おかしい。もうお風呂に入りますから、きょうのところはこれで投稿します。考えることって、難しい。考えすぎなのかなあ? ちかごろ、やたらに自分の文章を批判したくなります。わたくしたち高校生に小難しい評論ばかり読ませる弊害ですよ、まったく*2

*1:「この問題はあの公式を使えば解をみちびける」という判断にきわめて近いものです。

*2:これはわたくし、実に嘆いています。国語教育のせいで「良い文章」を誤解している高校生はたくさんいると思います。