わかる

わかるとは。とは、っていう問いにどう答えるかはいろんな切り口あるけど、さいきん好きなのは「らしさ」を問うこと。「わかったらしさ」とは何か。言葉を砕くと「わかった感」。慣用の言い回しに「わかったつもり」がある。「わかったつもり」は「わかる」の否定を意味することがある。つまり「わかったつもり」=「本当はわかっていなかった」。しかし「らしさ」の観点からは「わかったつもり」とは「わかった感」に支えられた「らしさ」を伴った「わかる」結果であると思う。「本当は」という言葉は「お前がこれから言うすべてをなにがなんでも否定するなら」というほどの意味だと思っているので、「本当は」を排除し、「わかったつもり」がまさに「わかる」であるといいたい。というか「わかる」のひとつであると。
別のことを考える。工学という学問分野がある。工学のルーツは、たしか、産業が革新しつつある世の中において学問的知識と職人的技芸を兼ね備えた優秀な技術者を育てることにある。つまり工学の目的は世の中で「できる」技術者を育てることだ。だから「世の中で役に立たない工学」はできそこないだ。また高度な技術を使いこなすには体系的な「わかる」が必要になる。だから工学は学問という手段をとる。
いまの工学を妄想してみる。工学は制度として理学に近く、理学徒が伝統的な教育を受けるように、工学徒も伝統的な教育を受ける。つまり整理された知識を基礎から積み上げるように学ぶ。
「できる」が組み合わされ繰り返されると「わかる」から離れていく。わからないが動くとかなる。このわからないが動くをつくるものを道具という。仕事の「できる」は道具を使うので、どんどん「できる」。それだと融通が利かないのでせめてグループに一人とか世界に百人くらいは「わかる」ひとがほしい。
「できる」と「わかる」のかけ離れを防ぐには、わからせることと、わからせかたをよくすることがある。わからせかたをよくすること、たとえばすごい理論をつくることは学問の仕事だ。また工学では道具もつくる。けど道具をつくるのはわからないといけないから、道具を使うことは「できる」の飛翔だけれど、それをつくることはやはり学問的だ。
工学教育と工学問は、理学教育と理学問ほどは関係が明確ではないように思う。工学教育はそのルーツから世の中の価値観に晒される。しかし工学教育もまた工学問の価値観から離れてはいけない。工学問が世の中の価値観に侵されて、工学問とは道具をうまく使うことであると思われるのは貧しい。しかし工学問が世の中に贈る「役」は道具そのものであったりするので、誤解も仕方ない。
工学、役に立てばそれでいいという見方も、まず学問であるという見方もあると思う。勉強を教える立場として、基礎が大事だ、というのがある。その理由は「基礎がない応用はニセモノだ」とか「基礎がわかれば応用もおのずとわかる」というような信念だと思う。二つの見方はこの信念の捉え方の違いだ。「工学は役に立てばそれでいい。基礎づけできようができまいが、応用して動けばそれは役に立つという意味でホンモノだし、動かすためには経験則や試行こそが重要なのであって、整理し終えたくらい古い知識に頼っても無駄だ」。「工学は学問でなければならない。原理がわからない道具に頼っては不測の事態に対応できず危険だ。社会や自然への影響についても反省しなければならない。基礎を重視して教育すれば効率的に柔軟な能力が身につく」。
世の中−人材(教育)−学界(学問)みたいな入れ子を思い浮かべる。さっき工学を理学と対比させてしまったが、制度ある学問分野である以上、工学のような価値観の折衝は必然かもしれない。
余談だった。
基礎を詰め込んで「わかる」のかという疑問もある。「できる」ことで「わかった感」を得ることもある。逆に「できる」ことを知識に基礎づけることにも「わかった感」がある。過程をみることでわかることもあるし、過程をつくるルールを知ることや、割り出すことでわかることもある。豊満なレトリックによってわかることもあるし、オッカムでかみそってわかることもある。伝統的教育は、わかった感はそのうちでいいよ、とりあえずわかれ、ということかもしれない。じゃあこのわかるは何かというと「感」ではなく、演繹的につじつまのあった大系を認知的に構築しろということだろう。でこの大系は使える。と考えると、ここでの「わかる」というのは道具をからだという鞘に収めること、「できる」との共通を感じる。
じゃあ「わかった感」はそのうち勝手に出てくる、学問的におまけなものなのか。教室的でないやりとりからそういうのが補完されることもあるだろう。そういう場面は昔ほどはなさそう。
道具的わかるみたいなのがいくつもあって、道具的わかるが認知の琴線に触れたときに「わかった感」が出るのかもしれない。なら大事なのは道具的わかるの使いこなしである気がしてくる。「わかった感」は第一の「わかる」だと思っていたがそうではなくて、その作用因として道具的わかるがある。逆に考えると、「わかった感」のヒット率から、それぞれの道具的わかるに対する好みを判別できる。道具的わかるの内部的評価が演繹的整合性とモデル的説明力によって評価されるとして、その外部評価として使用者の美意識がある、というイメージ。伝統的学問分野においては客観性の比較的強い内部評価が重視される。しかし外部評価を重視するという哲学的・思想的なこだわりもありうる。内部評価と外部評価がどれだけ一致するかは運だ。ならば学問という制度の立場からは「あなたのわかった感はこの学問とは関係ない」と言うのは優しさかもしれない。
まとめ。

  • 「わかる」の本質は「わかった感」だと思っていたが、そうともいえないと思い直した
  • 「わかった感」を取り除いた「わかる」には「できる」に共通する道具性がある
  • 「わかった感」のセンスはひとそれぞれなので、これを学問において重視するのは難しい